五年十一月二十八日徴兵令公布せられ、此の際左の語勅を下賜せらる
朕 惟るに古昔郡県の制、全国の丁壮を募り軍団を設け以て国家を保護す、固より兵農の分なし、中世以降兵権部門に帰し兵農初めて分かれ、遂に封建の治を為す、戊辰の一新は実に千有余年已来の一大変事なり、此の時に当たり海陸の兵制も亦時に従い宜を制せらるべからず、今本邦古昔の制に基づき海外各国の式を斟酌し全国募兵の法を設け、国家保護の基を立てんと欲す、汝百官有司厚く 朕 が意を体し普く之を全国に告諭せよ
明治五年壬申十一月二十八日
十一月二十八日 太政官より左の告諭あり
徴兵令の告諭ありしと雖も国民未だ旧習を脱せず、封建時代の武士制度を慕い兵役は国民全く我が義務なることを解せず、適齢者動もすれば忌避するの傾きあり、是に於いて此の告諭の発布あり
徴兵告諭
我が朝上古の制、海内挙げて兵ならざるはなし、有事の日 天子 之が元帥となり、丁壮兵役に堪ゆる者を募を以て不服を征す役終れば役を解き家に帰り、家に帰れば農たり工たり又商売たり、固より役世のの双刀を帯び、武士抏顔坐食し、甚だしきに至りては人を殺し、官その罪を問わざるものヽ如きに非ず、抑も
神武天皇 珍彦を以て葛城の国造りとせんより尓後、軍団を設け衛士防人の制を定め、神 亀天子の際に至り六府に鎮を設け始めて備わる、保元平治以後、朝綱頽弛、兵権遂に武門の手に落ち、国は封建の制を為し人は兵農の別を為す、降て後世に至り名分を泯没し、其の弊勝りて言うべからず、然るに大政維新列藩版団を放還し、辛未の年に及び遠く郡県の古に復す、世襲坐食の士は、其の録を感じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。