刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一するの道にして、即ち兵農を合一するの基なり。是に於て士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇国一般の民にして国に報ずるの道も亦固より別なかるべし。凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充つ。然らば即ち人たる者固(もと)より心力を尽し国に報ぜらるべからず、西人之を称して血税と云う。其の生血を以て国に報ずるの謂なり。且つ国家に災害あれば人々其の災害の一部を受けざるをえず、是れ故に人心心力を尽くし国家の災害を防げば則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち兵備あり、兵備あれば則ち人々其の役に就かざるをえず、是れに由て之を観れば民兵法たる天然の理にして偶然作為の法に非ず。然り而して西洋諸国数百年来研究実践、以て其の法極めて精密なり。然れども政体地理の異なる悉く之を用ゆべからず、故に今其の長ずる処を取り古の軍政を補い海陸に軍を備え、全国男児二十歳に至るものは悉く兵籍に編入し、以て緩急の用に備うべし。郷長里正厚く此の御趣旨を奉じ徴兵令に依り、民庶を説諭し国家保護の大本を知らしむべし。
太政官
同六年一月九日、六管鎮台を設く、名古屋・広嶋を新たに設く、次で七年五月十四日当連隊編成に至る
歩兵第十連隊歴史
明治七年五月十四日、歩兵第十連隊編成定められ、六月一日、大坂屯兵歩兵第四大隊を歩兵第十連隊第一大隊(携帯兵器スナイドル)、第二大隊(ソシナール)と改称、創立当時は二大隊編成にして大阪城内に屯す、鎮台司令官陸軍少将三好重臣にして連隊長陸軍中佐茨木惟瞧なり。
十月十一日、第一大隊第一中隊(長大尉児玉軍太)大坂発営姫路仮営に分屯す、(現歩兵、第三九連隊営所構内)