酒井家の刃傷事件
「姫路藩士騒動記」は、酒井家が前橋から姫路へ所替えが実現してから3年目に起こった大事件を記録した文書である。
家老の河合定恒が所替えを推進した公用人犬塚又内(ゆうない)と家老本多民部左衛門に対し刃傷に及ぶという凄惨な事件であった。突然の所替えであったため酒井家の家中では、当然賛否両論が起こったが、この史料は両論を公平に記録するのではなく、当時の儒教的倫理観から記述したという特徴を持っている。しかし、現代的な視点から賛否両論を詳しく検討すると江戸幕府内部で姫路藩の置かれた政治的立場を知る上で重要なヒントが含まれており、姫路藩政史に一大転機をもたらした酒井家時代を理解する上で貴重な史料的価値を見出すことができる。以下の解説文からその意味するところを読み取って頂きたい。
解説文は、「姫路藩士騒動記」の原文を解読し、これをもとに読下し文を作成し本文の記述を尊重しながら現代語訳したものである。
1,事件の発端
酒井雅楽頭(うたのかみ)(忠恭(ただずみ))が江戸幕府老中筆頭を勤めていた時のことである。国家老本多民部左衛門が主要で江戸へ出てきていた。その頃、江戸では犬塚又内(ゆうない)が公用人を勤めていた。この人物は、藩主忠恭のお気に入りの人物で、江戸での政務全般を仕切っていた。
ある日、本多の元に犬塚が訪ね、四方山話の中で老中を勤める忠恭の役柄に話が及んだ。又内は次のように言った。老中のつとめは殊のほか大事であり、若し万一非常事態が起これば、当酒井家の瑕瑾(かきん)になり、領地の安堵もままならず、そうした事態になれば御先祖への親不孝である。殊に酒井家は、井伊・藤堂と並ぶ徳川家筆頭の三家の一つである。他の大名家とは異なる重責を負う名門である。大切なる役儀を果たす為には万全の備えが必要である。貴殿はこのこと如何考えておられるか、と問うた。民部左衛門は、成るほど貴殿の申さるる通りであると同意すると、又内は、貴殿も左様に思し召さるるなら、折りを見て殿へも申し上げるべきであろうと述べて別れる。
2,犬塚又内と藩主忠恭
ある時、雅楽頭の前で又内はこれ等の事をふと申し上げた。本多に語ったと同じく酒井家の家柄、そして忠恭の役儀の大切さを説き、万一の時は領地にも障り先祖への不孝にもなると説いた。忠恭は成る程その方の申すとおりである。我等の心配事もその内にあり、心を痛めていることである。病気により老中職を願い上げ退役し、溜詰(たまりづめ)を仰せ付けられれば家の面目も立ち大慶である、と申された。そこで又内は、幸いにも姫路城が明くので姫路への所替えを提案した。この姫路と申す所は前橋よりは格別よろしき場所にて御座候と姫路への所替えを希望するよう入説した。忠恭は応えるに、「この儀はかねがね望んでいた所であるが、前橋と姫路との儀(所替え)願い上げ候ても叶いがたき事」と述べる。又内は、そこで幸い国家老本多も在府中であり、本多へも相談して如何様にも私共働き思し召しに叶うよう仕ります、と申し上げると、忠恭は、そうであるか、それならばひとまずその方等の働きを見守ってみようと応えた。
3,犬塚又内と岡田忠蔵への加増
忠恭の本心を聞き出した又内は、本多や江戸家老にも相談し所替えの下工作を始めた。はやり神へ手入れし、音物等の付け届けで取り入り、役人共懇意になり忠恭の望みの筋を入説し、内々に所替えを調える事に成功した。こうした又内の工作の結果、忠恭は、御前において召し出され、老中職の御免を仰せ付けられ、前橋から姫路への所替えを仰せ付けられた。
姫路藩では、この所替えをその後「御得替」と表現してその恩恵を永く享受した。
一方、雅楽頭の上屋敷では、この日招集された家老・用人・番頭・物頭共は、吉事であると衣服も改めて待ち受けていた。そこへ退出してきた忠恭は、一同を広間へ呼び出し事の次第を告げた。「さて今日は召し出され、御役御免・溜詰を仰せ付けられ、さらに前橋より姫路への所替えを仰せ付けられた。家の面目、世上の聞こえ有難き幸せである」と。
忠恭は、又内を呼び出し、その方は御役儀万端滞りなく勤め満足に存ずる。これにより四百石加増いたし、江戸家老を申し付ける、と述べる。これにより又内は六百石にて公用人を勤めていたが、四百石を加増され一千石となって江戸家老を拝命する。また、又内の側近として行動した中小姓岡田忠蔵はこれ迄百石で奉書目付を勤めていたが百五十石加増され二百五十石を賜り、江戸留守居役に抜擢された。両人とも冥加至極有難き幸せと御礼を述べた。序で忠恭は、早々前橋へも早馬にて伝達するよう命じた。
4,国元への伝達
江戸上屋敷からの使者が国元付くと前橋城の御殿には、城代の高須隼人の跡式を相続した高須兵治と申す十四歳になる者、国家老の本多民部左衛門・境野求馬・川合勘解由左衛門(かげゆざえもん)(定恒)、家老並には、松平左忠その外、用人・諸番頭・諸物頭どもが罷り出てこれを迎えた。使いの者は面々に向かい江戸での次第を伝達すると一同頭を垂れて恐れ多い事と承った。
しかし、その中で唯一人勘解由左衛門が進み出て意見を述べた。「御使いの趣、慎みて御請け申し上げる。今度溜詰め仰せ付けられ候事は、恐悦至極に存じる。去りながら御所替えの儀は私において恐悦至極と申し上げまじく候」と苦言を呈した。使者は、その言を遮って「勘解由左衛門殿には御用の儀、御座候に付き早々江戸へ御登り候様」にと伝えた。勘解由左衛門は、江戸へ出府する下命を御請けする旨を答えた。
使者の伝言を受けてから四日後、勘解由左衛門は江戸表に到着した。その旨、雅楽頭へ申し上げれば道中くたびれてはいようが早々対面したいと申し入れが有り、勘解由左衛門はすぐさま上屋敷広間へ出頭した。
5,忠恭と定恒の対面
雅楽頭も即刻広間へ出でられ、満足げに語る。「さて今度思いもかけず御役御免、溜詰仰せ付けられ殊に前橋より姫路へ御所替え仰せ付けられ、さてさて家の面目、世の聞こえ、有難き幸せに存ずるなり、定めて国元いずれも満足に存じその方にも息災に勤め大悦なり」と申された。しかし、勘解由左衛門は一言も発せず、次のように思いの丈を全て吐き出すべく長広舌に及んだ。
此の度、溜詰め仰せ付けられた事は、恐悦至極に存じます。しかし御所替えの儀は、私において御家の大変と存じます、と反対の意向を縷々申し述べる。というのは、当家は世上にて重く用いられ井伊・藤堂・酒井を御三家と申しならわし、あれこそ本当の城主なりやと評判する重き御家である。酒井勘解由と申しその頃、権現様(徳川家康)より一万五千石を拝領し、川越の城主となりました。その時、権現様の言ではその方へよき城を遣わしたく存ずる、しかし、川越の城は掻揚城(かきあげじろ)であるが、先ず城主と成る事が大事である、とのお言葉で頂戴した城である。其の後前橋の城を拝領し、二万石の加増を受けて三万五千石の城主となりました。其の時、権現様から頂いたお言葉は、前橋の城は江戸の城の縄張りをもて築いた城である。二つと無い城である。これより外に其の方が城と名付け持つべき城なし、永代所替えなど願い出まじくこれよりも申し付けることはないとおっしゃった。その節十六騎を付けられ、その後上杉・佐竹没落の節、野武士共を大勢宛行いに頓着なくお家柄も宜しくと申し御家中へ取り立てられてきており、当年まで百四十五年が経っている。このような次第である故、当家においては百石取りの者に三百石の軍役を申し付けてもよく働き、二百石取りの者は五百石の軍役を勤めている。
尤も私共は、忠義を尽くす家臣であるので、唯今姫路へ御供仰せ付けられれば遅滞なく相勤めますが、姫路へ罷り越すとなると百石の者は、素の百石、二百石の者は、素の二百石の働きしかせず、なかなか是迄のような軍役は、期待できない。左様になりては御家の誉れも無きものになりはて重大事にございます。権現様から付けられた十六騎の者は、殿の御家来では御座なく候。昔より前橋の儀は、どなた様であっても公儀より一通りお尋ねがありました。其の上で老中より私共家老が召し出され、一通りお尋ねがあり、雅楽頭殿は承知されているのか、家来共は如何存じているか、と尋ねられ、私共万一承知承知仕りがたき儀は、其の通り申し上げれば雅楽頭は承知しているが国家老共は承知していない旨、上へ其の通り老中より申し上げられれば、実現しなかったことは古えからの習いであった。それをかように何の沙汰も無く仰せ付けられたのでは、承知することは出来ませぬ。これは当家の家風をご存じなきものと存じます。と長々と古来よりの習わしを申し上げた。
6,雅楽頭の立腹
勘解由左衛門の予期せぬ言説に雅楽頭は、驚き動揺し激しく立腹した。「家風を知らずとは、いやさ家風を知らぬとは・・・」と息を詰まらせ言葉を失った。しかし、勘解由左衛門は、さらに続けた。御家風ご存じなきと申し上げたのはと、この度の家臣への倍の加増を指摘した。この度、犬塚又内と岡田忠蔵の両人は、何の武功・忠節を行い、公辺へは何の御用を努めて加増となったのか、と問い糺す。当家の儀は、前々より家風にて二百石より倍の加増は一切下されないという家法があると、その由来を説明する。そこで勘解由左衛門は、御先祖酒井勘解由殿と称しのち咸休院(かんきゆういん)を名乗る藩主忠挙(ただたか)の時代の例を挙げる。
その頃、家来に片山志賀右衛門という者がいて大坂の陣の節馬先にて武功を上げ、公儀へも忠節を尽くした。咸休院は、常々あの者へは褒美を遣わしたいと考えていたが、城代・国家老の手前を憚り、加増を申し付けていなかった。ある時、家臣が打ち揃って酒宴が催された。その時、咸休院がふとおっしゃるには、さて片山と申す者殊の外武功なる者なり、あの者に何か位(くらい)を付けたきもの也と。その時、城代・国家老共は口を揃えて申し上げるに「御意の通り」、片山は、まことに武道に叶いたる者にて私共はかねてから御加増下され候様仕り度思っていました、と申し上げれば、咸休院殿が申されるには、城代・国家老共の手前を憚りおり候えどもその方共も左様に存ずるなら幸い酒宴の慰めに加増高を銘々の存念に任せて書き記し入札してみよう、とのたまえば、一人一人書き記し紙を丸めて差し出した。咸休院も書き記し、一緒にして披見したところ咸休院を初め各々残らず五十石と書き記していた。このように上下の者の思うところが見事に一致したので、咸休院も落涙し、さてさてこのように主従の思いが一致すること世にあるまじき事である。まことに斯様なる家臣を持つ故、我が高名武功の名を上げる由縁であると感激して片山へ五十石を加増されたという。
このように公儀へ忠節を尽くした武功正しき者にさへ五十石を下された。当家の家風で加増に百石というのは、甚だ特別のことである。もし主君の思召しにより加増してやりたいとお考えならば家風が乱れぬよう千石を下されたいなら二百石宛五度に加増される工夫こそが大事である。にもかかわらず、犬塚や岡田は、何の武功、何の忠節があっての四百石・百五十石の加増であるのか、ときつく問い詰めた。
7,忠恭に切腹を迫る
忠恭は、定恒の糾問を受け、発する言葉を失うが、ただならぬ気配に激しく立腹して言った。「勘解由左衛門、其の方儀先ほどよりいちいち物語りの次第さては我に切腹せよ、詰め腹切れと申す事よな」と言を荒くする。勘解由左衛門は動じず慎しみて申し上げるに「御腹思召さるべく候はゞ思召し次第のこと、私この座一寸も退き申さず、御腹召され候はば御供はこの勘解由左衛門仕るべし」と覚悟の一言に、忠恭は返す言葉も無く苦り切っていたと記す。一座は、緊張の余り、シーンと静まりかえり、同座していた側用人・小姓は束になって無言のままであったという。
しばらく間があって、側用人が今は早百年目と決意を固め、つつと勘解由左衛門に向かい御次の間に立れよ、と迫るが、勘解由左衛門は動じずその場を動こうとはしなかった。側用人を押し返したが、その顔を見れば、二言あらばこの場で討ち捨てんとする剣幕の顔色であった。
ここで勘解由左衛門も次の間へ退いた。そこで坊主を呼び入れ、家老・用人衆の役所へ唯今から勘解由左衛門出頭するが隠密の用向きがあるので役所(詰め所)へ案内するよう申し付ける。坊主が役所へ入るとまもなく勘解由左衛門は、家老・用人の詰所へ出頭した。そこで次のような挨拶を受けた。「何れも道中お疲れの所、早速お詰め下されご苦労に存じます。この度殿には溜詰仰せ付けられ、殊に御所替え仰せ付けられ殊の外お悦びであり、我々も恐悦至極に存じます」と口を揃えて大慶を述べた。勘解由左衛門は、一言も発せずしばらく間を開け「なるほど何れの方も仰せの通り溜詰め仰せ蒙り候は恐悦に存ずるが、しかし、所替えの儀は御家の大変と自分は存じている」と改めて反対の意向を述べると、人々は挨拶の言葉無く肝をつぶしたる顔色であったという。
8,又内と岡田忠蔵へ
次に勘解由左衛門は、犬塚又内に向かって言った。「貴殿は、この度家老職仰せ付けられ御加増の由目出度いことでござる。しかし、貴殿は当家の家柄・家風をご存じの上、家老職を拝命されたか」と詰問した。「少し辞退あるべき所がその儀は無く心得がたき事である。当家御家の儀は、加増は二百石宛より外は下されまじき家法がある」と述べこれまでの前例を上げる。何の某と申す人、代々用人職の家系にて御先代が家老職を押せ付けられ二百石の加増を受けた時、当日は有難く拝領し、翌日になって同じ役職の同僚を以て辞退を申し上げている。その理由は、「私儀は、代々御用人職の家柄です。今度格別のお引き立てにより家老職を拝命し、冥加至極、有難き幸せに存じております。しかし、たとい家老職を仰せ付けられず候とも如何様にも相勤める所存でありますので、家老職の儀御免下されたいと存じます」と申し出て加増も返上したという。この事は殊の外、殿様も賞賛なされ人々も感心致したところである。この度、貴殿は右の如くあるべき事を如何、法外に居丈高にさえあれば宜しきと思われているのか、と理屈を以て問いただされた。この言に又内一言も無く黙然と押し黙ったままであった、という。
また勘解由左衛門は、岡田忠蔵に向い次のように糺した。「貴殿にも加増があり、江戸留守居を仰せ付けられたそうであるが、目出度いことと存ずる。ご両人には申すまでも無く御役大切に御勤めあるべし」と。そして、私は殊の外長旅で疲れたので休息致すと退出し在番の長屋へ引き取った。
9,雅楽頭の沙汰
長屋へ引き取ってから勘解由左衛門は自らの振る舞いをふり返って、何らかの厳しい処分が下ることであろうと考えた。又内は、権勢をふるう者なれば、定めて自分には切腹の命が下るのではあるまいか、また組内の者や関係者にも処罰が及ぶことを考えた。穏便な沙汰であっても隠居せよと命じられるであろうと考えていた。四~五日経って勘解由の元へ側用人が使わされた。用人は、前件には一切触れず藩主の命令を伝えた。使者は、今度前橋より姫路への引き移りの節は、「晴れに牽かせよ」と忠恭愛用の馬を遣わされたことを伝えた。この忠恭愛用の馬は、金七十両を調えて購入したものであるという。
勘解由左衛門は謹みてお請けする事を申し上げた。「まことに以て御意と申し上げ、ことさら馬を頂戴することは重きことである。武の道に叶い有難き幸せである」と感謝を述べ、早速御礼のため参上することを伝えた。側用人が帰った後、衣服を改め参上すると雅楽頭が直々対面するとのことで広間に勘解由左衛門を呼び出した。雅楽頭が言うには、「あの馬は前橋より姫路への所替えの節、晴れに牽かせる為に遣わしたものである。今度所替えの儀はその方一人に任せる事になるが、此の度の所替えはすでに決まったことであり変更は叶わない。此の上は前橋より姫路への所替えの準備を致してくれ、前橋の方は全てその方に申し付けるので帰ってからは自分一人で家中の上・中・下に至るまで心置きなく指図して取り計らうよう」と命じた。勘解由左衛門の前件の所業には、案に反して何の沙汰も下されなかった。
勘解由左衛門は、慎みてこの命を請け早速前橋に帰り引き払いの用意に取りかかった。在所家中の者は、父一人、夫婦を入れて三人あれば一人に乗り物一挺を支給し、六尺(陸尺:駕籠かき)を六人付け下々まで残らず割り当てた。前橋より姫路までの道中入用高二百石取りには金六十両を支給し、上・中・下に至るまで姫路へ移っても三ケ年は楽に暮らせるよう手配した。この行届いた配慮に家中の上・中・下に至る者、定恒の配慮に感謝し、この沙汰を「憐憫深き殿の意向が示されたものである」と雅楽頭を褒めそやす人は居なかったという。
10,世伜内蔵助の不行跡
川合勘解由左衛門には二人の男子がいた。嫡男は、川合内蔵助(くらのすけ)と言い、二男は、宗見(むねみ)といって河合隼之助の父となる人である。内蔵助は、雅楽頭の小姓頭を勤めていたが、ある時特別の計らいで内蔵助は千石を拝領し、江戸詰め家老役を申し付けられていた。犬塚又内と同席の扱いである。しかし、若年であり、ふと悪所通いが高じ不行跡の噂が立った。それが元となり江戸の役人や又内等は「あれあれ見られよ、親父は武の道を正しく致され候得共子は不行跡である」と後ろ指を差してあざ笑ったという。
その事風の便りに父の方へ聞こえてきたという。また、六月公儀の御中陰の時、内蔵助の奉公人草履取りが秋元但馬守屋敷の辻番所にて口論となり、但馬守がこれを聞き隣同士のことをそのように難しくすべきでないと内分に解決したことがあった。こうした事が国元の父の元まで聞こえてきた。
11,江戸留守居岡田忠蔵
当年雅楽頭が参勤の暇を得て姫路国元へ帰城するときのことである。犬塚又内は、供番にあたり姫路へ帰ることとなっていた。その又内宅へ留守居役の岡田忠蔵が暇乞いに来て話し合っていた時、又内が言うには、其元もこの度の帰城に姫路の見物がてら御供されては如何かと誘った。忠蔵は、御供仕りたいとは存ずるが、何とも願い上げようがないと言えば、又内は、其の儀は拙者如何様(いかよう)にも願い上げ取り計らってみよう、事に御留守居役なればもし老中方より留守居中に姫路の様子をお尋ねになれば一通り姫路国元を見置き申し度と願い上げれば願いも相叶うであろう、と言いえば、岡田は又内によろしく御頼み申すと願い、すでに願いが取り上げられ雅楽頭の帰国にお供できることとなった。
12,姫路城中にて
雅楽頭が、姫路へ到着してから数日が過ぎ、勘解由左衛門が、姫路城内を見まわっていた時、岡田忠蔵とはたと行き会った。勘解由左衛門は、忠蔵に向かい「これは貴殿、今度お供致され候や、さて御供の沙汰は、承り申さず」と声をかけ事の次第を問い詰めた。「誰であって殿の御供であれば江戸同役共より申し越すはずである。貴殿が、今度お供致される沙汰は聞き及んでいない。貴殿は、御留守居役であるのに今度どうしてお供致され候や」と問い糺した。
忠蔵は、この質問に少々慌てて「いや私儀留守居を勤めていたところもし老中より姫路の様子をお尋ねになった時、返事に差し支え申し候故、一通り拝見し置くべくと存じ御供仕った。」と答えれば、勘解由左衛門申すには、それは貴殿の間に合わせの返答というもの、もっともらしく思う者もあろうが、拙者は、承知できない、と続ける。「総て国元のことは、老中方よりお尋ねあれば江戸家老共よりお尋ねの趣を早々御請け致し、その後返事申し上げる。得と知らざる儀は、拙者ども方へ同役より申し越し吟味致し、江戸同役へ返事する手はずとなっている。もしまた地方のことなどお尋ねもあれば地方役人を登り遣わすであろう。それにどうして貴殿は留守居役でありながら地方の様子を存じておく必要があるのか、留守居役というのは、万端留主中のご進物など付け届けに心付けられ、それを第一と致すことである。拙者推量するに貴殿は、姫路表の見物の為御供を願い出、罷り越されたのではあるまいか。それなれば何とも理解しがたき事である。早々江戸表へ帰らるべし」と道理を以て糾問されれば、忠蔵一言もなく早々江戸へ立ち返ったという。
13,内蔵助の禁足
その後勘解由左衛門は、国詰めの家老をもって雅楽頭へ願いの儀これ有りと申し出た。雅楽頭は、これを聞き「何の願い出であるか、直々に対面致すべし」と申され、勘解由左衛門を広間へ招き願い事を聞きただした。勘解由左衛門は、直に申し上げるのは恐れ多いことですが、とことわり「お願いと申しますのは、世倅内蔵助のことで、兼ねてお目をかけていただいて江戸家老仰せ付けられ有難き幸せに存じております。しかし、恐れながら殿のお目がね違いかと存じます。か様の不行跡者を御目代として御家の政務を取り仕切ることは出来ないでしょうから内蔵助には切腹仰せ付けられますよう願い上げ奉ります。」と申し上げた。しかし忠恭は、これを聞き「未だ年若き者である。また年頃に成り候はば何れ止むべき事であろう。年若の者が色欲に迷うことはあるべき事である。咎める程のことではない」と御せられて直ぐに席を立たれた。
勘解由左衛門もその場は是非無く引き退かざるを得なかった。しかし、其の後江戸家老へ書状を送り、川合内蔵助儀御用の儀これ有り、姫路国元へ至急帰城せしむべきよう命じられたしと願い出た。そこで内蔵助は早速国元へ帰されてきたが、勘解由左衛門直ちに内蔵助は病気なりと申し触れ、禁足させてしまった。そして雅楽頭へ御役ご免を願い出た。雅楽頭はこれを聞きそうであるならば致し方なしと御役ご免を申し付けた。勘解由左衛門有難いことと御請け申し上げ、翌日直ちに同役を以て倅不行跡により知行差し上げ申し候と千石を返上した。そして帰るなり直ちに檻を拵え内蔵助を閉じ込め禁足させた。
14,又内の姫路出立
其の後殿中へ相詰め候時、又内は、勘解由左衛門に向かい「もはや大方御用向きも済んだので拙者は江戸表へ出立仕るべし」と申し出た。これに対し勘解由左衛門は「ごもっともである。しからば拙者より江戸表の家老共へ御用向きも溜まっており、事に少々隠密な御用向きがあるので書状にも書き取りがたき事柄故、貴殿御下りこそ良き序でである。一通り内談申したいので出立前に一寸拙宅へお越し頂きたい」と申せば、又内これを承り、成る程と承知し伺候致すべき旨を返事した。其の後勘解由左衛門は、病気と称し二十日程引き込み程なくして出勤してきた。
15,勘解由左衛門と犬塚又内
勘解由左衛門は、又内と出会い「さぞお待ち遠く思われたであろう。拙者病気にて引き込みお手間を取らせ申し訳ござらぬ。さて貴殿はいつ頃お下りか」と尋ねてみれば、当月十一日か十二日頃に出立の予定であるとの返事であった。勘解由左衛門は、「左候はば十日の夕方にお越し頂きたい」と答え、さらに「民部左衛門殿にもお越し頂き、蕎麦切りを御馳走致したい」と伝えた。そして、「又内殿には次の御供までは五~六年も有る事だろうから御用談の前にゆるゆると一座を設け話し合いたい」と申し出た。勘解由左衛門の招きに又内と民部左衛門の二人は誠にかたじけない事であると応えた。そして、その場に家老格扱いの松平左忠が同席していたので勘解由左衛門は左忠へもお越し頂けないかと招いた。
左忠は、この招きに「私儀は、皆様とは違い加判の列に漏れ候者なれば、隠密御用談の場には伺候致しがたく候」といったんは遠慮すべき返事をしたが、勘解由左衛門は「左そうらわば御用談の節は別の間にて御用談致し申すべく候」と応え「賑々しく打ち寄り御酒宴仕りたく、御出頂きたい」と申しければ、左忠さようなら伺候いたすべしとお請けになった。
16,七月十日の夕べ
さて、七月十日の夕べになった。勘解由左衛門は、河合家の家老を勤める村山作左衛門を呼び出し次のように申しつけた。「今日、本多民部左衛門殿、犬塚又内殿、松平左仲殿夕方より参らるるはずである。又内殿には、内々にて隠密の御用があるので左様に心得ておくよう、又内殿は再び姫路へ帰城されることはしばらく間遠くもあり候故、蕎麦切りを振る舞い申す程に用意致すべし、尤も隠密の御用であるので少しでも外へ漏れれば、我が身の一大事であるので家内の者なども屋敷内に差し置くことは出来ない。ことに女子などは口さがなき者なれば我が指図次第その方宅へ引き取らせよ。」と命じた。さらに「蕎麦切りを出した後吸い物酒を出しかさ飯なども出すべし、お膳を出した下人共もまた同様にこれも早々我が指図次第その方宅へ引き取らせ、其の後に戸口は口々へ錠を降ろし、口明き候は玄関のみにいたし、玄関にはその方が番をし、万一御殿より御用向き申しきらり候共一寸も玄関を離れてはならぬ。その方へは、我が呼び申さず内は、内へ参るべからず、この事は必ず相心得守り申すべし」と申し付けた。
すでに夕方になり、七つ時頃、左仲様が御出でになった。後刻又内様・民部左衛門様も御出になるとこれも同じく書院に通した。勘解由左衛門の居宅は、玄関四十五畳敷で書院は三十五畳敷という間数で、江戸にて六千石・七千石取りの旗本屋敷に匹敵する構えであった。
17,勘解由左衛門の接待
勘解由左衛門は、「これはこれは何れも今日は暑気強く御座候処を御出下されかたじけない」と三人を出迎えた。三人は「さてさてこれは御手広き良きご住居なり、殊のほか外風も入り涼しきことである」などと挨拶を交わした。さて、蕎麦切りを出し吸い物も召し上がり、一座の和みを見計らって作左衛門は、そろそろかさ飯にても差し上げ申すべきかと尋ねた。勘解由左衛門は、「いやいやどなたもただ今は召し上がられまじく、後ほど御用談相済み候上にて然るべし、何れも左様が然るべしや」と問えば、三人は「成る程その通りしかるべし」と応えた。そして、「酒も先ず三献を交わし、其の後御用談が終わり、ゆるゆると酌み交わすべし、ただ今は御用談前である。もし間違いもこれあり候ては如何に存ずる」と勘解由左衛門が述べると、一同「至極ごもっとも先般御用談も終えてからゆるゆると頂くべし」と同意した。
勘解由左衛門は、先ず残らずお膳を引き下げることを申し付けた。そして台所へ行って「さあさあ皆の者、作左衛門宅へ引き取り、口々へ錠を降ろし、そして一間一間に燭台を立て置くべし」と命じた。そして自分は、書院に戻り、又内に向かって語りかけた。「さて又内殿、また当表へお登り成られ候儀はしばらくの間もこれ有るべく事、ご迷惑ながら一度拙者妻にお会い下されまじくや、江戸表と当表のちがいのみで家老という役は同じ事である。内外ともにお心安く願いたい」と申しければ、何れの方も成る程ごもっとも千万に存ずると言い、又内は、いや一向にかまいませんと応えた。勘解由左衛門はそうでござるか、と又内を奥へ案内した。その節民部左衛門へも左忠へも勘解由左衛門挨拶に少しの間お待ち願いたいと申しければ、両人とも「これにてゆるゆる涼み申し候」と応えた。
又内は勘解由左衛門の案内で幾間もなく行き八畳敷の小座敷にいたった。勘解由左衛門は、「さあさあ此処でござる。ただ今妻に左様申すべし」と先に立った。又内は、「さてさて御手広なるご住居これは御居間にて候や、うらやましきこと」と言った。勘解由左衛門はしからば妻にそう申すべしと奥へ入ったかと思えば、直ぐに立ち返り、つるつると又内が膝元へ詰めかけ「ご自分は御家の仇になる人なり」と声をかけ刀を抜き切りつけた。又内も二三寸抜きあいたけれども直に右手を打ち落とされ、これはと言いて立ちける処を返す太刀にて袈裟懸けに切り捨て、一刀にて止まりける処を上に乗っかかりのど笛を突き払った。勘解由左衛門は、自分の刀を見れば血糊だらけになっていた。これはと思いかねて覚悟の上で用意していたことと見えて、その部屋の床に置きし帷子上下を着替え、又内を討ちし脇差しの糊を拭い鞘に収めそこに置き、着替えの脇差しを腰に差し、手水場にて手水を使い顔を洗い心を落ち着かせ何事もなかったように表へ出てきた。
書院に入った勘解由左衛門は、二人に向かって次のように言った。「さてさて御両人方、お待ち遠くこそ御座有るべし、又内殿ただ今妻にお逢い候也、押っつけ御出有るべく候間、御用談弁じたく候。さあ民部左衛門殿これへ」と案内し、「左仲殿には、御退屈ながらしばらくお待ち願いたい」と申されると左仲は「さてさてお座敷は、風良く入り、休息仕りおり候間、ご遠慮なくゆるゆる御用談の弁じ有るべし」と応えた。勘解由左衛門は「御用談済み候て又ゆるゆるお酒盛り仕るべし」と、おどけながら民部左衛門を奥へ伴った。しばらく行くと「さあさあこの座敷にござる。最前又内殿が妻にお逢い下された処です。そこへ案内し御用談に弁じ申しべし」と導いた。民部左衛門は、「成る程座敷はなかなか人手も遠く御用談仕るには良き処なり」とほめ言葉で相づちを打てば、「しからば又内殿へ左様申すべし」と次の間に行き直ぐ様立ち返りつかつかと民部左衛門が膝元へ詰めかけ、「ご自分は、お家に仇になるべき人なり」と発し、刀に手をかけ抜きつければ、民部左衛門も心得たりとて、これは一尺ばかりも抜き合わせけれども、これも右手を打ち落とされ、「これは」というて立つところをてっぺんより梨割に切りつけられ一太刀にて倒れたところを上から乗っかかりとどめを刺した。
勘解由左衛門は我が身を見れば、衣服は血糊だらけであった。これも残らずその場に脱ぎ捨て、民部左衛門を切った脇差しを拭い、鞘に収めてその座の床に置き奥へ行き手水場にて手水を使い顔を洗った。今度は白帷子紋付きに麻上下を着し小脇差しをさして玄関へ行き、家老の村山作左衛門を呼び出した。
18,作左衛門への申し次
勘解由左衛門は、「最早御用談相済み候、奥へ来たれ」と作左衛門を呼んだ。作左衛門何心なく奥へ行くと、勘解由左衛門は、座し改まり「作左衛門その方譜代と申し、年来よく相勤め呉候儀過分なり、さてさて人と申す者は、まさかの折、凶事家に起こるときには必ず心落ち着け対処するものなり」と述べると、作左衛門は、「これはこれは改まりたるお言葉」と承った。勘解由左衛門は、そこで「されば今晩、民部左衛門・又内の二人、是迄自分なりの存念ありて討ち果たしたり」と言うと、作左右衛門は、心落ち着け「御首尾の程如何候や」と問う。勘解由左衛門が「首尾よく討ち留めたり」と言えば、「先ず以て恐悦に存じます」と応えた。「さてその方へ頼みがある。我只今切腹致す所存なり、介錯を致し呉れ」との頼みに、作左衛門畏まりて承りて刀を取りに立とうとする。勘解由左衛門は作左右衛門に向かって、「扨てその方書院へ行き、左仲殿へ向かい、勘解由左衛門が申し上げるに先刻よりしばらくの間お控えさぞお待ち遠く御座有るべしおっつけ御用談相済み候間ゆるゆる御一座にてお酒給わり申すべし、と伝言せよ」と申し付ける。作左衛門が出て行こうとするところを「まてまて」と呼び戻し、「その方が顔を見せよ」と顔色を確かめて「それなればよし」と送り出した。
作左衛門は書院に入り、勘解由左衛門の言葉を伝えると、左忠は「さてさて御念入り候事かな、お座敷は風良く入り涼しく過ごし居り候、ゆるゆる御用談弁じこれ有るべし」と応えた。作左衛門その様子を主人に伝えると、勘解由左衛門は作左衛門に向かって改まり、次のように語った。
「さてさて作左衛門、二人とも相対差し向かい討ち果たし候ことなれども、我切腹の後になって、だまし討ちに致し候などという者もあるかもしれぬ。依って一通り汝に切り留めし次第を見せ申すべし」と。そして、手燭を取って先に立ち、両人を切り倒したる処へ連れて行き、状況を説明した。「我等ご自分は、お家の仇になる人なり、覚悟せよと声をかけ抜き付ければ、又内はこい口漸く二・三寸抜くところを右の手打ち落とし立ち上がるところを斯くの如くけさ懸けに致し討ち留めたり。民部左衛門へも同様に声をかけ抜き付ければ、これはこい口を一尺程抜き放つところを右の手打ち落とし、立つところを斯くの如くなし割りに致したり」と銘々に見せ、「必ず我が切腹の後いずかたへ罷り出で候とも斯くの如く申せ」と詳細に申し含めた。そして「さあさあ切腹致すべし」とて已に切腹いたさんとして、「いやいや一寸硯と紙を持て」と申し、作左衛門が用意をすると筆をとって一首認め吟じ作左衛門にも見せた。
「これはよろしき」と作左衛門が述べると「いや下の句が宜しくない」としばらく考えていたが、「いやいや考えては時が移る」と細かく引き裂き丸めて捨てられた。そして我が切腹の後、この一封を書院へ持ち行き、左仲殿に右の次第を申し述べよと伝え、「勘解由左衛門申し置き候委細の儀は、この内に御座候」と、差し出すべしと遺言した。そして「左そうらはば、番頭・目付立ち会いにて定めて検死あるべし、必ず民部左衛門・又内・我等が屍に手を付け申すまじく、よくよく心落ち着けた上で万端後の儀はかようカ様に取り行い申すべし」と詳細に命じた。作左衛門へも金子などを渡し行き詰まらぬよう得と申し置き、「いざさらば」とて服押しくつろげ脇差しをとっぷと押し立て、五・六寸押し込むと見えければ、作左衛門後ろへ廻り首を打ち落とした。
19,左忠への報告
勘解由左衛門の切腹の後、作左衛門は衣服を着替え、主人から頂いた脇差しをさし一封を持って書院へ行き左仲の前の手を着き事の次第を報告した。「さてさて先刻よりさぞ御退屈で御座いましたでしょう。勘解由左衛門が申し上げるには、今晩、民部左衛門殿・又内殿に対し拙者存じ寄り有り討ち果たし申し候とお伝えせよとの事でございます」と伝えると、左仲は、「何、両人を打ちはたされたるとや」と驚き尋ねた。作左衛門これを承り「御意の通りにて御座候」と応えた。左仲はそこで「御首尾は如何候哉」と尋ねると「首尾よく主人勘ケ由左衛門御両人を打留め候」と応えると、左仲はこれを聞き「珍重々々早々御切腹がよし」と申された。作左衛門が「其段兼て覚悟仕り、最早切腹仕り介借申付け候によって私仕り候」と言うと、左仲は「あっぱれ々々々々最早御家の御人つきたり惜哉々々、扨々今日迄少も色に見へず誠に々々能き武士の手本成るべし」と申しける。作左衛門は「委細は此内に申置き候」と主人の遺書を左仲が前へ一封を差出した。左仲はこれを手に取り「此一封は自分ばかりにては披見しがたし、番頭・目付立会の上披見申すべし、先ず預り置く」と懐中へ入れ、「其方もケ様なる節は随分々々落ち付かれよ」と、自分はきせるを取りたばこ二三ぷく呑み、「しからば民部左・((まま))又内両人家来にはいまだ御用談にて手間取り候、九ツの御太鼓打ち候はば迎へに参るべし」と伝え、拙者家来には「四ツの時打ち候はば御殿へ罷り出で候心得にて供廻り支度いたし参候様申付けられ、皆々家来返されよ」と言う。
作左衛門は、これを承り玄関へ出で、その命を伝えると供廻りは残らず帰った。左仲はその報告を聞き「先ずそれにてよし、左候はば勝手向を一通り見度もの火元等も心元なき」と申し、作左衛門「成程御入り御覧候へかし」と応えると、左仲は「いや々々検使済ざる内は此席我等立ち退きがたし」先々其方一人にてよくよく心付け見廻り火元等大切に致さるべし、扨て門には侍の内心落付き候人二人を付け置き申さるべし、我等が差図致さざる内は決して開門致さざる様申付られよ」と命じられた。
その後、一封を認め番頭・衆目付衆方へ早々伝達し、親類中へも書状を送った。何れも驚き急いでやってきた。左仲は、その人々に対し「いや々々少も御気遣い成事にてなし」と状況を説明した。そして、番頭衆・目付衆立会いで検死が済み、「勘ケ由左衛門跡の義残す所なく親類共へ申し含め預け置く、追って雅楽頭殿より仰付られ次第兎もかくも御左右申すべく、そまでは随分々々大切に親類中見張り成らるべし」と申し、一同引き連れ帰って行った。そして、雅楽頭へかくと報告した。勘解由左衛門の残した書置には「呉々も勘ケ由左衛門家は乱心と仰上られ給らるべく候、此義喧嘩と仰立られ候ては本多・犬塚・川合共に潰れ申す事、何れも御譜代の家筋三家潰れ候も気毒に候間、勘ケ由左衛門家は潰れ候ても苦しからず候間、呉々も乱心を仰立られ下さるべく候」と書き記してあった。しかし家中の者は、皆「誠有る侍の家を潰し候て横さま成る者の家二家を立て候事成間敷」と、とり々々評判した。左忠は「委細左仲が心得候ぞ」と言って、「先は、兎も角もここはまず静まり申さるべし」と取り静め置かれた。大方すえ々々川合の家は、また立ち申すべくとの沙汰であった。
さて勘解由左衛門が家老作左衛門は、主人が申置き候通り、面々跡式の事残らず引拂い下々迄金禄を遣し、万端首尾相調へ自分の家内も親類共方へ預け其身は勘ケ由左衛門三十五日目に勘ケ由左衛門菩提所へ参り、主人石塔の前にて切腹未来の供となった。
誠に武士の道なるべし。忠あり実あり武道あり、勘ケ由左衛門の働きと落付き、左仲の沈着、作左衛門の忠義、三人劣らぬ武道也と感心せぬ者はなかったと言う。
右は寛延四年未七月十日夕の事なり
国詰
城代家老 高須隼人組
高千五百石 高須兵治
十四歳
同
家老
高千石 本多民部左衛門
四十余
同
同断
同断 川合勘解由左衛門
四十五歳
同
同断
同断 境井((ママ))野求馬
三十余
家老並
同断 松平左仲
三十余
江戸家老 犬塚又内 四十余
松平内記 鳥井新九郎 永田武兵衛
本多刑部 太田無右衛門 松崎善兵衛
山田清右衛門 外山助兵衛 成瀬伝助
太田彦助 川合勘ケ由 倉橋半三郎
酒井八郎右衛門 内藤弥十郎 宇野左馬助
松平左平 上田兵庫
大橋伝一郎 都築清十郎 合廿四騎 内壱騎断絶
松平孫三郎 芦谷縫殿
大橋覚左衛門 児嶋源太郎