10. ペリ-来航の日(嘉永6年6月3日)

姫路藩兵の出動
ペリー・C・マシュー提督

 嘉永6年(1853)6月3日にアメリカ大統領特使ペリーの1回目の来航の記録があります。
 8日になると、姫路藩の出兵が決定し、いよいよ出動となりました。「8日、夜7つ時頃大目付森時右衛門より手紙到来、ご出馬に付き明9日早朝より御上屋敷へ相揃い申さるべく候」。
 9日には、幕府から次の7藩へ出兵命令が下りました。
1,越前福井藩主 松平越前守慶永
2,讃岐高松藩主 松平讃岐守頼胤
3,阿波徳島藩主 蜂須嘉阿波守齋裕
4,長門萩藩主  毛利大膳大夫慶親
5,肥後熊本藩主 細川越中の守齋護
6,筑後柳川藩主 立花左近将監鑑寛
7,播州姫路藩主 酒井雅楽頭忠寶

 この命を受けて、10日、姫路藩兵は芝・高輪方面に出動します。姫路藩は、最初のペリー来航時には江戸在番の藩士で対応しています。この時、出兵した藩士として記録に残っているのは、次の人々です。
◆10日 朝7ツ半時(午前5時)出動
侍大将 石本勝左衛門
検使  河合小藤太
物頭  針谷九郎兵衛、志水三九郎、古市藤之進
旗奉行 西松隼馬
中小姓組頭 芳賀久右衛門、上田左大夫
長柄奉行 瀧 善右衛門 大河原九郎右衛門
大目付  福嶋数右衛門
使番 松崎左平
陣場奉行 松原十郎左衛門
奉行兼筆談役 菅野狷介
表医師  志賀元周    総勢114人、 卒200人カ?

※高輪泉岳寺を本陣とし、芝明神に2番手を配し、
姫路へ急使を派遣する。

(急便の内容):物頭 三俣惣太夫・勅使河原勘左衛門へ
兵士100人、卒100人を選抜し出府せよ。

 ところが、13日の記録を見ると、「13日昼後に至り、内藤和助より達しこれ有り、異国船出帆に付き各組引き取り申すべし」と記しています。この間、6月9日にペリーは応接の場所久里浜に上陸しています。「日本側が、私を陸で応接すると約束した日である。護衛の数は、およそ四百名、全員が完全武装を整え上陸に備えている」(『ペリー提督日本遠征日記』)。

【ペリー上陸記念碑】久里浜

 護衛の兵士400名を完全武装させペリーは、旗艦サスケハナ号の大砲を合図に上陸しました。そして、その場で幕府を代表する井戸石見守と戸田伊豆守に大統領フィルモアの親書を手渡し、使命を果たしたペリーは、6月12日浦賀を去りました。

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