11.ペリー来航と国元の対応

国元姫路藩士の出兵

 ペリーが浦賀を去った後、6月14日付けで姫路藩国元は出動命令を受け取りました。姫路藩では、次の様な対応を取っています。「三俣惣太夫・勅使河原勘左衛門、此度相州浦賀表へ異国船渡来ニ付き、江戸表よりお便り次第御足軽百人召し連れ出府いたし候様仰せ付けられ候」(「異国船渡来ニ付御手当御用出府在勤日記」鈴木次兵衛より)。これは、15日の記録です。ところが18日の記録を見ると、「今18日夜5つ半時頃、牛込次大夫様より(中略)浦賀表異国船当月12日退帆いたし候間出府延引に相成り候旨仰せ付けられ候」と、出兵が延期となりました。このため国元では、部隊を再編成し4組に分けて7月8日から出動させました。出府した藩士の名前は省略しますが、次の様な編成になっています。

【7月8日】:江戸へ出動
☆1番手 8日夜六ツ半時姫路出発→23日、江戸着
・米津一左衛門以下24名、卒5人、
・目付  細野真十郎、下目付 太田伊久助
☆2番手 9日同時刻姫路出発→24日、四ツ半時江戸到着
・三俣惣太夫、
・小頭 山地作大夫、下目付 古川儀助、卒18人
・本多辰蔵
・小頭 鈴木次兵衛、下目付 斎田昌平、卒18人
☆3番手 10日同時刻姫路出発→25日、江戸着
・細井市大夫以下30人、卒5人
・目付 寺尾広右衛門、下目付 小疇左次兵衛
小林橘次郎
☆4番手 11日同時刻姫路出発→26日、江戸着
・茂木卯三郎以下30人、卒5人
・目付 中野瀬右衛門、下目付 松本太作

 江戸に向けて出兵したこれ等の姫路藩士は、そのまま越年し、翌年のペリー再来に備えました。

近習席学問相手拝命

 この大騒動の中で8月に12代将軍家慶(いえよし)が亡くなり、姫路藩でも9月に6代藩主忠宝(ただとみ)が25歳の若さで亡くなるという事件が起こっています。ここで姫路藩では、田原藩主三宅康直の子忠顕(ただてる)(顕徳院)を鋭姫(文子姫)の婿養子に迎え7代藩主としました。忠顕は、4代藩主酒井忠実の孫にあたります。9月3日の記録には、次の様に記されています。
「9月3日、此度殿様ご容体ご不例に付き、三宅対馬守様ご  二男勘解由(かげゆ)様(忠顕)、鋭姫君様へ御(おん)婿養子にお願い成され候」
 亀山敬佐は、この新藩主忠顕の元で抜擢され12月1日、近衆席学問相手を拝命しました。30歳で昌平坂学問所へ入門を果たし、佐藤一斎の門下生となった敬佐は、32歳で藩主の家庭教師となったのです。次の写真は、近習席学問相手を拝命したときの記録です。
「嘉永6年(1853)癸丑12月朔日、ご用の儀に付き、麻上下服紗小袖着用まかり出で候処、大目付星野乾八立合いにて年寄衆よりご近習席御(おん)学問相手仰付けられ候」

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