28.藩主の遠乗り

遠乗り初め

この年21歳になる藩主忠顕は、元気で活動的な殿様だったようです。初めての帰国時からお鷹野(鷹狩り)をはじめ、領内の巡見や遠乗(とおの)りを精力的に行っています。在国中の殿様の巡見記録や遠乗り・鷹狩りの記録は珍しいので紹介しておきます。安政3年の最初の記録は、正月11日です。(②1/11)

安政3年正月11日
〈遠乗り初め〉

〇11日:朝六(むつ)時お供揃にて御本城へ入御、お側の者一統股引(ももひき)・半傳(はんてん)・野羽織(のばおり)・草鞋(ワラジ)にてお居間南のお庭に相並び、馬杓(ばしやく)にて  お酒頂戴、お肴は、鯣(するめ)・大根漬、右相済み候てより殿様お玄関七・五・三の御門よりご出馬、お側の者大手へ、(中略)、鹿間津(しかまづ)ご門より出て、鹿間御茶屋にお入りこれ有り、夫より御茶屋ご覧これ有り、御船高砂丸ご覧これ有り、夫より東の方お鷹野、阿成川お渡り遊ばされ、継村にて小休、牛堂門前より市川お渡り候てお帰りは京口御門。

 朝6時頃、初めての遠乗りと鷹狩りは、御本城の居間南の庭にて準備を整えています。お庭で馬杓すなわち馬が柄杓(ひしやく)から水を飲むごとくがさつな飲み方で酒・肴を頂戴して、玄関前の7・5・3の御門より出馬し大手門から飾磨津門を経て飾磨の御茶屋へ入っています。午後は東の方、阿成村から市川を渡り、妻鹿村に入り松原・宇佐崎を経て継村で小休止を取っています。妻鹿村は、室津から髙砂へ通う往還道路が通っていました。継村からは北へ向い御着(ごちやく)の牛堂山(うしどうさん)国分寺を経て西国街道を西に取り再び市川を越えて外京口門から城内に入りました。馬に乗っての行程ですから相当の強行軍ではなかったかと推測します。
 2度目の遠乗り 2度目の遠乗りは、2月25日に行っています。これは髙砂・加古川方面に足を伸ばして1泊2日の行程となっています。

〇同(2月)25日:朝六時お供揃いにて六半時御出門(しゆつもん)、北条御門よりご巡見、当夜高砂お泊り、26日高砂お立ちにて尾上より、新野辺(しのべ)お廻り、当夜鹿児河((加古川))お泊り、27日鹿児河お立ち石宝殿にご参詣、七半(ななつはん)時京口御門よりお帰り。

 この遠出は、亀山敬佐を含めて少人数しか随行しない質素なものだったようです。記録を見ると、「野羽織・伊賀袴着用にて物持人一人御貸人これ有り、草履取一人自分達なり、上下三人分賄札目付より相渡す、下宿はお小姓と同宿」と記されており、賄(まかな)い料として必要経費は目付より上下3人分が支給されたということです。また、宿はお小姓と同宿となっています。
 3月14日には、室津巡見がありました。亀山敬佐は「頭瘡相発し」と頭に腫れ物が出来てたため随行していませんが、大目付から巡見の心得としてお供の者へ次の様なお達しがありました。

〇3月10日:室津湊は諸国の船入り込み候儀これ有り、遊所   もこれ有り候間、何□□無礼不作法これ無き様相心得、下々   に至るまで屹度相慎み候様申付け置れるべく候

 室津は、諸国の船の出入りが激しいところで遊所もあるので、無礼不作法な振る舞いの無いよう戒めています。4月になると、今度は西の方、広畑方面に出かけています。5月には、城下を丁寧に巡見しています。

〇同(5月)25日:朝六半時、御供揃いにてお遠乗り■■■、野里御門御出、山王祠お立寄■■■■、夫より久長町■■■・東魚  町・元塩町・二階町の間■■御出、(中略:飾磨津御茶屋に入り釣りを楽しむ)、七半時頃お立ち、鹿間津門より入り、夫より社前お通り抜け・俵町・福中町より福中御門御出、御堂前より龍野町へ御出、朝日寺中へお休み、夫より車御門お入り大名町よりお帰り、右お供相勤め候。(■■■は虫損により解読不能)

 この日は、朝7時頃供揃いをして野里門から北へ出ています。山王神社にお参りをしてから南に下り、久長町・東魚町・元塩町・二階町を通り、飾磨津の御茶屋へ行っています。午後は、夕方の5時頃出発し、飾磨津門から入り十二所神社前を通り俵町・福中町から福中門を出て船場本徳寺前を北へ取り龍野町に入っています。朝日寺で小休を取り車門から城内に至り大名町を通って東御屋敷に帰られたということです。右お供相勤め候と締め括っています。この日もまた結構な強行軍でした。
 この年、亀山敬佐は35歳になっていました。元気な若い藩主の側近としてよく仕えています。こうして見ると、忠顕は初入国で領内の隅々まで把握しようと努めたのでしょうか。城下は元より飾磨津を起点に東は加古川、西は広村から室津にかけて精力的に巡見をしています。先に見た速鳥丸の建造にあたっても強い関心を持ち秋元を抜擢しています。速鳥丸は、安政5年(1858)に完成しますが、好奇心旺盛な先見の明のあった藩主ではなかったかと推測します。
 諸事控え 次に忠顕初入国の出来事として主な話題を拾っておきます。安政2年10月2日、江戸大地震のあったことは取り上げましたが、倒壊全焼した姫路藩上屋敷の再建は順調に進んでいたようです。2月には、江戸からの連絡として次の記録があります。

〇先月((2月))27日:晴光院様巣鴨お仮御殿へお引移り遊ばされ候旨申来り候、この段承知として申達し候。

 晴光院(11代将軍家斉の娘で5代藩主忠学(謙光院)に嫁いだ喜代姫)は、巣鴨にあった姫路藩下屋敷に仮御殿を築造してここに移りました。身の回りの生活の不便さはこれにて解消されたと思われます。次に5月になると、林田藩士河野鉄兜が訪ねてきています。

〇5月13日:昨夜奥州一ノ関田村右京大夫様家来、森文之助   林田河野俊蔵□御携へ福中町古手屋太右衛門方へ至■、東遊   四人の■名を具し申来り候に付き旅亭へ参り一献、八半頃出   立、市川迄見送る。

 河野俊蔵(鉄兜)は、東北一ノ関藩士、森文之蔵を連れて姫路藩の「東遊4人」を訪ねてきています。4人とは、嘉永4年春、昌平校書生寮に入門した亀山・羽田・村田・本多の面々です。彼等は、ほぼ同時期に江戸にて学問修業を積んだ経験を有していましたから懐かしく旧交を温めたことと思います。河野鉄兜は、有名人で交友は全国に広がっています。江戸時代は、この様に昌平校での学問修業で結ばれた学友が全国に分散していて、優秀な人材の交流がありました。亀山敬佐の親友には、会津藩士の南摩綱紀(三郎)がおり、菅野狷介には、同僚に書生寮舎長の仙台藩士玉虫左太夫(子溌(しはつ))などがいました。それぞれ各藩のリーダー的役割を担って活動しています。

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