好古堂での講義
安政3年も6月になると、江戸大地震により倒壊した上屋敷の再建が進み完成間近となっていました。江戸参府を延期していた忠顕は、いよいよ出発の準備に取りかかります。忠顕は、出発に当たって家中藩士の気持ちを引き締め、振興を図るべく藩政の整理と人事の刷新を行っています。藩政の振興策として忠顕は、祖父の祇徳院(ぎとくいん)(4代藩主忠実)にならって学問の奨励を柱としたようです。まず、自身の学問相手を勤めていた側近の亀山雲平(敬佐)を好古堂教授に任命し加増を行っています。藩主からじきじき教授を拝命した亀山敬佐は、6月9日、好古堂本堂にて268人の藩士および子弟を前にして講義を行っています。この時の記録を紹介しておきます。
〇6月1日:本多意気揚殿より左の通り御付られ候
教授兼勤(けんきん)仰せ付けらる 亀山敬佐
お■間本堂講義等相勤め候様仰付られ、肩衣(かたぎぬ)ご免成され候
右お書付け請取り相□((済み))、大目付へ挨拶、それより惣肝煎松平孫三郎殿へ挨拶、両役へ風聴、お勝手向御役人へ風聴 御小姓番部屋へ風聴、御近習御用人へ風聴、夫れより宅へ 引取り諸方廻勤(■は虫損にて解読不可を示します)。
6月1日、月番家老本多意気揚から呼び出しがあり、麻上下の正装で御用場に出席すると、好古堂教授を仰せ付けられました。兼勤となっているのは、藩主側近として既に近習席学問相手となっていたからです。同時に本堂での講義を仰せつかっています。この時肩衣の着用を許されています。この書付け(任命書)を受け取り、大目付・好古堂の惣肝煎(そうきもいり)(現在の学長にあたる職責か)松平孫三郎はじめ、両役(城代・番頭カ)、勝手向き役人、御小姓部屋、近習御用人に風聴(挨拶し知らせること)しています。その後自宅に帰ってからも諸方に挨拶して廻ったようです。
268名の聴講者
3日には、藩主からじきじきに書を拝領しています。亀山敬佐の講義に関わる文書と思われます。講義に関しては、重臣から次の様な御触れが家中に伝達されました。虫損部分が多く内容は十分くみ取れませんが、前後の文脈から判断すると、歴代藩主の治政の存念を認めた文書であろうと推測します。藩庁から重臣の連名で御触れが出されました。
〇6月:祇徳院(ぎとくいん)様好古堂■■■、咸休院(かんきゆういん)様御趣意■■■、祇徳院様御書添の御書付■■■■拝見仰せ付られ候処、其■年数も相隔て候に付き、右御趣意相心得申すべく候、(中略)、この度改て右御■■写し拝見仰出され候間、御代々様厚き思召の程、存じ奉り候、銘々は勿論、子弟教諭の儀、誠精相心得 らるべく候、已上
辰六月 長澤小太夫 北爪弾蔵
本多意気揚 河合隼之助
内藤半左衛門
概略の意味を取ってみますと、祇徳院(4代藩主忠実)が好古堂に託した思いや咸休院(前橋時代の5代目藩主酒井忠挙(ただたか))が藩校好古堂を創立した趣旨などを記す文書をこの度改めて拝見したと記しています。年数も隔たっているが、これは代々藩主の熱き思いが認められたものであるので、その趣旨を忘れず学ぶことは大切なことであると、銘々(藩士一人々々)は勿論、子弟教諭のため日頃の心得として謹んで拝聴するように、というものでした。
署名している重臣を見ると、長澤小太夫は、河合寸翁の財政再建の時の功労者で奉行を務めており、北爪弾蔵は、年寄階級の昔からの重役です。本多・河合・内藤は、この時国元に滞在した家老です。「顛衣余録」の記録を見ると、当日は、268名の藩士の名前が挙がっています。聴講したのは、藩士および好古堂に学ぶ生徒です。
次いで6月17日には、亀山敬佐に高増しの沙汰がありました。「二十日までに御礼願い度(たき)面々は願書差し出し申すべし」とある処から多くの藩士に加増や処遇の変化があったと推察します。
姫路藩の歴史を見ると、前橋時代の第5代藩主、忠挙(ただたか)が藩士の士気向上を図るため藩校の好古堂を設立しました。学問によって藩政の振興を図ろうとするねらいを持っていました。その約1世紀余り後の文化年間には、4代藩主酒井忠実の元で河合寸翁が財政再建に着手すると共に学問の奨励に力を尽くしています。文化13年(1815)に忠実は、好古堂の発展を図って大手門前へ移動させます。そして嘉永4年(1851)には、一度に4人もの留学生を昌平坂学問所へ送り出しています。いずれも学問の奨励をもって藩政復興の策として取り組んだ歴史がありました。亀山敬佐の講義は、好古堂の創立やこれに託した歴代藩主の存念などについて語ったものと推測します。