忠実と学問の奨励
忠実時代になって隼之助は藩主承認の下で財政再建の困難な道を進んでいきます。文化10年(1813)には、御国用積銀講(みくにようつみぎんこう)を設立し、頼母子講(たのもしこう)という金融組織を財政再建の柱に据えます。さらに文化13年には、好古堂を大手門前に移し拡張して、学問を奨励し人材の育成に取り組もうとしたのです。これ等の政策も忠実の信任の下で進められたものでした。
忠実は、隼之助を通じて学問を重視する考えを共有していました。隼之助が、改革を進める中でかねてから学問所を設け人材育成にあたる抱負をもっていることを熟知していました。そこで「その方の存意、願望を承知し、この上は加増などの沙汰ではなく学問所設立の願いを遂げるため(中略)山屋敷一ヶ所を遣わしたい。望みの地所を見立て申し出るよう」(『姫路城史』中巻P751)と隼之助の願いの実現に向けて配慮を示し、学校設立資金として五十人扶持を与えています。忠実と隼之助は、共感と強い信頼の絆で結ばれていた事が解ります。
忠実と酒井抱一
忠実には外に心強い後見人として酒井抱一(ほういつ)がいたという研究があります(『都市のなかの絵』P204)。尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に抱一が「夏秋草図」を描いたことはよく知られています。文政4年(1821)11月に下絵が完成し、翌5年の前半には一橋家に戻されますが、この前後、酒井家には慶事が続きます。12月に忠実は、酒井家にとって30年ぶりとなる溜詰(たまりづめ)を拝命しました。文政5年正月には、藩を上げての盛大な祝儀が行われます。この時、国元から大年寄の国府寺次郎左衛門父子や辻川組大庄屋三木藤作、神吉組大庄屋神吉五郎太夫等が御祝いのため出府し、日光にまで足を伸ばす旅行をしています(大庄屋三木家資料集1、P4)。6月には喜代姫と忠学の婚姻が成立します。また、酒井家の親族では、抱一の母で忠実からすると祖母の実家にあたる西尾藩大給(おぎゆう)松平乗寬(のりひろ)が9月老中に昇進しました(『徳川幕府事典』P442)。そして翌6年7月に姫路木綿の江戸専売権が確定します。抱一の描いた「夏秋草図屏風」は、酒井家の家格の復旧に大いに貢献したと言うことが出来ます。
家格の復旧
家格の復旧については、こんなエピソードが残っています。酒井雅楽頭より出された次の内願書について老中首座の水野忠成(ただあきら)と将軍家斉の会話です(「公徳辨」P432)。
「御咎めを蒙りしより一旦御免これ有り、先格の通りと仰せ付けられましたが、子孫遺失なく御奉公仕るべしと存じ御咎め中の姿のまま致し置くべしと記録を残してきました。この度与四郎(忠学)との縁組み仰せ出され、私(忠実)までは御咎めの姿をもって供立等までこのままで結構ですが、与四郎は御縁辺にあたることとなり、罪科の姿にては却って公儀に対し恐れ入りますので万端以前の通り(家格)立ち帰り私家再興仕りたく願います」
上記の内願書を御覧になり将軍家斉は「私まではこの姿とて与四郎よりは立ち帰りたくと願うは中々出来ぬ事なり」と感心なされ、願いの通り家格供立ちは旧に復したということである。天保3年(1832)忠実は、喜代姫入輿の節、金御紋鞍覆を用いることを許され家格の復旧を触れています(『姫路城史』中巻P781)。