書生寮の生活
ここで当時の昌平坂学問所の書生生活の一端を紹介しておきましょう。当時の姫路藩士は、毎年11月に1年間の勤務の状況を「勤書(つとめがき)」として藩庁に提出しています。亀山雲平は、「顛衣余録」第1巻の「勤書」で入門日の状況を次の様に記録しています。
「戌(嘉永3年)12月24日、江戸表昌平坂学問所へ寄宿仰せ 付けられ候、
亥の正月19日姫路出立、2月5日 江戸着仕り候、
同月18日より昌平坂学問所へ寄宿仕り、同10月29日まで相勤め申し候」。
敬佐は、嘉永4年に入門し、6年まで学問修行に精進します。この間、他行日(たぎようび)と言って外出を許される日があります。敬佐(けいすけ)は、嘉永5年4月、深川三十間堂にお参りをして、通矢(とうしや)の記録を写しています。姫路藩士の名が額に上がっていました。元禄15年4月6日に町田小助安正が挑戦し、総数10515本を放ち5353本の通矢に成功している記録が掲げられていました。また嘉永5年3月19日には、鶴田辰太郎正時が、通矢の新記録を打ち立てた記録があります。総数10045本を射て5383本の通矢に成功しています。江戸一の額を同堂に掲げたとあります。
南摩綱紀との出会い
嘉永5年には、8月21日に「ご住居お通り抜け」の記録があります。これは、12代将軍家慶(いえよし)が酒井家の上屋敷を訪問し晴光院(喜代姫の法号)と逢い、藩主忠宝および夫人喜曽姫に面会して江戸城に戻ったという出来事です。将軍家慶は、晴光院の兄にあたります。11月には、江戸城本丸の大火事を記録しています。
嘉永6年になると2月26日、敬佐は、昌平黌で詩文掛を拝命しています。28日には「南摩(なんま)同道・筒井肥前守・林式部少輔・林大学頭・安積祐助4先生へ御礼参上」と記しています。南摩とは、会津藩士南摩綱紀(つなのり)のことで敬佐の昌平校での学友で終生親しく交流がありました。
ペリー来航の日
嘉永6年(1853)6月3日にアメリカ大統領特使ペリーの1回目の来航の記録があります。ペリー来航前後の記事を紹介しておきます。
嘉永6年6月1日、亀山敬佐は、ペリーが浦賀に来航する直前、水戸弘道館への遊学願いを出しています。4日になって菅野狷介から藩主の許可が下りたので都合次第出立して良いという返事をもらっています。水戸の弘道館は、藩主水戸斉昭の説く尊皇攘夷の元祖といえる藩です。敬佐も水戸藩への関心を持っていたのでしょう。関心を同じくする菅野狷介は、後の安政3年(1856)に当時のフロンティア大地である北海道の探検を企て、「北遊乗」という旅行記を残しています。
しかし、5日になると敬佐の身辺が慌ただしくなっています。「5日頃より浦賀表へ異船相見え、ご人数用意仕るべく旨に候」と記し、姫路藩兵の出動の準備を記録しています。弘道館への遊学について家老高須隼人に相談した所「当分見合わせ方、然るべし」との返事で中止となってしまいました。