「新御積訳書(しんおつもりわけがき)」
―(河合隼之助「改革五年目の総括文書」)
現 代 語 意 訳 2022,12,14
序 論
財政倹約の儀は、かねがね厚く仰せ付け置かれてきましたが、旧臘(きゆうろう)公儀よりも御沙汰に及ばれ、なおまた当春御自筆の御書取りを以って改革をお命じになり、謹て承(うけたまわ)り、厚き思召(おぼしめし)の程、有難いことと存じております。家臣一統申し合せ、かねがね思慮してきた道理を率直に打明け熟談し、上下均一・内外平等の原則に基づき新に財政の再建策を試(こころみ)み立案しました。
財政逼迫の原因 右について、寛文(1661~)以後・寳永(1704~)前後の古記録等も収集し、寛延(1748~)御得替(おとくがえ)以後は特に検討致しました。年を隔てた昔のこと故、不分明の儀も多く考察も十分に行き届きませんでしたが、概観しましたところ御得替後は、多事多端のためか万事に騒動がちとなり、財政の収支はじめ各制度は、詳(つまびらか)ではありません。原因を考えますと、第一に分限(ぶげん)高が次第に増加していることです。また雑費支出は、際限がありません。随って借財は年々相増し、成箇(なりか)はかえって漸(しだい)に減少し、役人共は、心入れもとかく浮足だって、ただ当面の間に合せを第一とし今年は今年、明年は明年とする考えに成り行き、前後の事態を顧りみず、金銀の調達も一時凌(しのぎ)をのみ専一と心得て、義理あいを深く察せず、非を弁(わきまえ)えず断り筋を強いて押付ける等、一方的に申し募る状況となっております。種々万端混乱をを生じ、勤労に励みながら詮ずる処、一時凌ぎの方策となり、永久の規範とはならず、我知らず彼の権変表裏の術に陥り、世上軽薄の風儀と近似する樣となっております。
恐れ乍ら三河時代以来の代々の謙遜・淳厚(じゆんこう)の風儀にも叶わず、五年・十年と夷考(えびすこう)重ねて、益あるものとなっておりません。
別して近年、その弊害はなはだしく、事々に差支えを生じ、去る文化辰年(文化五年)に至りては、日々の定用(じようよう)にさえ手をつける事態となって穏かならざる調達等すこぶる増加し、総借財高六〇余万に及び、手詰り必死となり譜代名門の風評をも取り失い、家臣一統申し訳無きことと
存じ恐入る次第でございます。
当面の対策 翌巳年(文化六年)に移りましても、先(まず)は当面の急迫を凌ぐ已(のみ)の方策にて安堵致しがたく、日々お支え申すことも出来ない状態でございます。
実有実無の訳、内外包み隠し無く相談し、不本意ながら総借財、その他支払い方等迄多寡残らず、熟談いたし、断り勘定に及び、大阪においてはその上新出金三万両を強て相調(あいととの)へ、彼是(かれこれ)漸く外見を取繕う事が出来ました。恐れ乍ら御手元より着手し、御援助金等迄ますます減少の策を申上げ、家中へも一旦上増米(あげましまい)を命ぜられ、内外倹約に取り組みました。
こうした折がら領内の者は、ひときは思い入れを以て上納金等献金仕り午・未・当申三ケ年、まずは可成りに凌ぐことが出来ました。しかし、再建計画通りにては未だ毎年二万金ばかりの不足があり、打ち続く臨時普請等が突発し、何とも当惑至極の有様です。全く御徳義をもって不思議に前後都合がつき、毎事不十分ではありながら約束通りに進めることが出来て、外見は一先ず穏(おだやか)なる形勢を整えております。しかし、その実、日夜薄氷を踏むが如き有様にて一日も安心できない状態で、何とも恐れ入る次第であります。
然ると雖も右財政不如意の儀は、一朝一夕に生じたものではないので、また一朝一夕に回復できるものとは考えておりません。もし又彼の権変表裏の術を以って残忍厳刻の令を施行すれば、一旦は功を奏するかも知れませんが、畢竟天地神を畏れるの意のごとく、許容されることではありません、いわゆる「悖(はい)入もの又悖出の儀」の言い伝えのごとく、結局禍根を残すことになります。
返す々々も当面窮乏の原因は、一定ではありません、是れ
また今日の罪と申す事は出来ないと存じますので、暫くその所を安んぜられ、上下行険徼倖(ぎようこう)の看を絶ち、内外偏頗倚辟(へんぱきへき)の筋を少くし、左右前後相持ち・相扶け合うことでございます。三人分一日の飯米(はんまい)一日に一升五合支給する処を、一升しか支給できないなら、その一升を三人で平等に相頒(わか)ち、各(おのおの)三合三才(勺))余り均一に配当すれば、もとより不足であることは当然ですが、各(おのおの)飢餓には至りません、また支給を減じて飢餓に陥るとしても、人と我とを比べ恨(うら)む事無きやに存じます。
是則ち実有実無の義に出るもので、上下一致堅く貧を護る意志を立てれば、利は義の和と考えられるので、数年の後には必ずその始に復し候事是れ又必然で疑い無き事と存じます。聖語にも言うごとく貧(まずしき)ことなく共にこれ有りと、上はここに於て歳出・歳入分明の制度を定められれば、今日の大義は特別の法が無くても成就できると恐れ乍ら存じます、改善のための課題 古人も地によつて顛(ころが)るゝものは地によつて起つとも申します。
是迄の事は、費用無度、分限無度、借財日々増加、収納年々減縮するにもかかわらず、座視して今日に至ったことが原因であり、今からは此の教えに於て深く考察され、その時宜を得ること専要と存じ奉ります、仍って第一に詳(つまびらか)にされるべき課題は、収納です。、第二に一日(いちじつ)も時を失してならないのは国用御勤めです。第三に緊急の課題は定用です、第四に尤も子細に検討を加えるべきところは分限です、第五に不被得止(やむをえざる)勢いは借財と考えます。
右、五等五冊をもって再建計画を立案しました。就中(なかんずく)収納・分限は、最も重要な関節の部分にあたるもので この二つの課題の達成によってその他の節限は、自ずから成し遂げられるものと存じます。委細は以下の各条において具進仕ります。
第一節:御収納(財政収入)
新御積りの基礎 収納の儀は、万事の基本にて至って大切の事柄にございます。当地拝領高、本高十五万、込み高・新田・夫口等合わせて二十万八千余石、俵に換算すれば二十六万七千余俵となります。前々より諸引・永引など少々ありましたが、次第に増加し、当毛荒・新規御手当等近年頻りに相加り、約四万余俵の減少に成っております。
勿論水旱の変、地味の興廃などもありますが、原因の一つは 役人共が地方では、勤めを等閑にふし、諸事扱い方も疎略となり、中には不正な行いをする者がいるためと存じます。
去巳年(文化六年)以来、改革の趣旨を精々説得して来ましたところ、領内末々の者までもその趣意を理解して、少々づつ物成(生産高)も回復してきて、彼是五千俵余り増加し、近年にはこれ無き収納高になってきております。則ち右の生産高をもって新規の再建計画の基礎としました。
但し前橋においては本高十三万石改出二万二千余石、御分知以前上州・武州・相州・江州の四ヶ国からの収納にて、此の元は当時諸引減免が多くその生産高をもって、比べてもなお八万計り出入があります。しかし、当時の家中の分限高は、その倍にあたりますが、遠国故の失墜など彼是平均すれば前橋の方、却って簡弁にあたると申すべきでしょう。
歳入と借金返済 則ち右諸引残高小物成など、詰めて歳入正現米二十三万七千余俵の内、本高十五万を二つに分けて、その半分の七万五千をもって国用御勤(四万俵外欠代米)・定用御合力(三万五千俵外小物成米金附と定め、残りの半分七万五千をもって分限御元と相定めました。
但し寛文以後、元禄前後は、大数七万五千俵程にて分限帳を締めております故、この規則をもって御元(基礎)と致しました。
その上に当時上米(あげまい)高五割に応じ、加米五万俵余り相加えましたので、分限本地総渡し高は、右加米八万五千余り、合計十六万余り計上すべき所当時では差引くべき御元さえもこれ無き程でございます。右五割節約をもって相定め残りの三万俵ばかりの僅かな元手を以って新古緩急の借財当申(文化九年)の元金銀合計五十七万余両の利息に相当(弐朱三朱より八朱位迄)ました。
元返し元入等の手当には一向に及びませんので、国用方は初め諸役にて夫々が分担するという方法をとり、いづれの年も一入(ひとしお)不足は明白でしたが、まずは均一法を以って即今の収納分配の計画を立て進めましたが、緩急やむを得ざる状況はかくの如き有様です。
とりわけ借財方の不足は、甚だしく増え対応不能とさえ思われる勢いですが、この年を取ってみると、少々借り返し等の方法も取り入れ凌ぎ、現在のような状態になっています。
何事も分限高、昔に比べて倍増していますので、収納十分で借財一切無くても充実した国用に十分の手立てを講じる事は出来ないため、頗(すこぶ)る均一ならざるの一大原因と思われ、恐れ入り存じ奉ります。況や収納古(いにしえ)のごとくに回復しなかったならば、当地においては持ち支えること出来ない勢いです。前文に申上げました通り、領中の風儀は、々推察しますところ数十年来、人別離散し易く、自然と物入り高屓きになりやすき形で、その上諸懸り諸雑費多くて百姓ども甚だ無力に成っております。ところが、風俗は日々奢侈になってきておりますので、倹約筋厳しく申し付け諸懸り・諸雑費など堅く廃止し、その上除米(のぞきまい)・貸金等種々
御仁恵の政策を出され、一方ならぬ撫育を加えられましたので、漸々(ようよう)人口も増加し、諸懸り以下少なからざる出費を省く事が出来、追々蘇生する様子も相見へはじめました。この上、役人共さらに土地の実状を把握し、油断無く出精すれば、数年後には減収分も次第に回復する事と思われます。
百姓の貧窮と政事向き 畢竟、田地の肥沃・荒廃は百姓共の貧富の差より生じるもので百姓共の貧窮は、水害・旱害よりも何より政事向きより発するものが多く、鷹狩り等の役懸り多く、その中で役人以下・大・小庄屋に至る迄、不潔の思惑を含み姦猾の者はその時を幸いと、苞苴(ほうしよ)賄賂の術をもって私曲を恣(ほしいまま)にし、良民は専らその害を受け、日々困窮に陥りやすきものですが、智恵浅き者ですから、まずは黙してじっと耐えています。その結果を見ると、公の御損失のみ増える事となり、小民の艱難もさらに重なる事となり、人心暴動・群集強訴等に走り、奸情初て表に顕れますが、事すでに手遅れとなる形勢で、乱階に相成ります。
古今こうした事例は多く畏怖すべきことで、また甚だ警戒すべきことと存じます。
寛仁厳正の政治 しかしながら小民はとかく怠惰に陥り易きものにて、気を緩むべからざるの教えのごとく、日夜励まし引立てなくては顔前の利をも考慮せず、ただ朝夕の安佚(あんいつ)をのみ求めるものでございます。潔白勉励の役人を選抜し、寛仁・厳正の政事を加えられるべきことは、申し上げる迄もありませんが、固(もと)より第一等の義にて民富・地沃・人畜繁茂・租税無闕の根本は、全くここにあります。
第二節:御国用御勤(公解費、行財政経費)
御国用御勤めは、幾重にも手厚く対処していきたい事は勿論のことで、十分の割り当てをもって報いるべきところです。しかし、当今収納減じ分限はなはだ増加するなかで、何とも均しく配分する事は困難で止むをえない状況となっています。城米二万五千俵、欠代米二千九百俵余囲米(かこいまい)一万五千俵、合計で四万二千九百余俵をもってこれに当て、新穀の詰替えや、旧穀の拂い下げにてしばらく品位節度を定めています。
ただ、是をもって永久の規則と採用することは出来ません。殊に右、囲米一万五千は本高十分の一の心得にて、年々除き置き備蓄する計画案ですが、当時の有様ではなかなかそのような対策を講じることが出来ないので、頗る心外に存じております。
第三節:御定用(藩主および親族関係者経費)
御定用はかねがね厚き心配りを以て毎々節約の方針を出され、代々の殿様も節略に努めてこられましたが、さらに近年再び倹約を申し上げ益々手詰まりになってきており、恐れ入る次第です。しかし、実用において聊(いささか)にても御寛(ゆるみ)の実態が表に現れれば、乍(たちま)ち各方面に影響が現れ瓦解する勢いとなります。たとへば陣中の本陣というような緊急事態の発生の時、僅かばかりの事柄でも無秩序に前後の考えなく無く命じられるか、又は道理に合わない事を命じられますと、他事(よそごと)であれば心を悩ませるだけですが、万事わたって混乱し、規則が起たず、百端失墜がちになり、折角の御配慮も効果が現れないと恐れながら存じます。よって御手元等の定用分は、是迄の御定の通り暫(しばら)く居え置き、それ以上のことは申し上げるまでもなく何卒御積立の通りにて臨時出費がないよう、また計画が必ず遂行できますようお願い申し上げる次第です。付いては、御惣容様(藩主親族一統)御合力(援助)も加りますので、この御積り米三万五千俵では十分ではありませんので、拠(よんどころ)なき小物成米千七百同金四千七百両を加え置き申します。此の小物成は定用臨時手当として除外して置くべき処、何とも取り纏めることが出来ず、致し方なく混乱しております。この一件につきましては、側に居て平生最も不自由の儀を伺いながら申し上げることは、何とも恐れ入りますが、幾重にもご容
赦の程、伏してお願い申し上げます。
池田家当地在城の節、三国の領主にてさえ三万石の御暮(くらし)の由、実否は存じませんが、人々申し伝えています。戦争の世で万ず平時と同様ではありませんが、御節倹の状況は、見習うべき事と存じ奉ります。
右、国用勤め并びに定用・惣容様合力二口、都合七万五千俵、欠代米・小物成米金付き、凡そ本高の半高をもって分合相立てました。
第四節:御分限(家臣給禄)
家臣の増加と禄高の支給 分限高は、追々増加し当時総計十六万七百三拾四俵余りの支給でございます。本高残らず差当られたとしても一万余の不足となります。よって寛文時代以後、寛延時代前の概数に従い本高半数七万五千を以って軍役配当の人数立てとし、これを目標と定めて、その余(あまり)は、余分の召し抱え分と心得て、当時、姫路預(あずか)り五割、江戸詰預り四割の渡方を以って右七万五千の上へ加米五万余り差し入れ、込高新田高共に引当てたとしても御高におよばず、ご有余これ無き有様にございます。
右、原因を審(つまびらか)に突き詰めますと、寛延已(1749)、御得替以後の著(いちじるし)き変化は、当御城付きの家臣が、彼是三百人ばかり一時に殖えてきており、その後、縫殿頭様への分知、是また顕然たることでございます。
但し元禄以前、淡路殿五千石高にてすでに半数の支給増加があり縫殿頭様も御付きの者、支給は御内分の禄高より支給されますが、その実状は、淡路殿の存命された時代と違い、一倍には及ばないのではないかとぞんじます。
右、御城付きの者、支給分も二万俵まで増加するとは言えませんが、かくの如く相嵩みますと、新しくお家を取立て惣領分二男・三男を召出したり、新規に召抱える者等や扶持・金主・扶持米等にて大方の小身・小給・御目見以下に至るまで分限の出入り悉皆増加していきます。
寛延三午年(一七五0)と去る文化未(一八一一)とを比較しますと、御高にて二万四千七百四俵、人数にて三百三十七人縫殿頭様御附除之 も増加しています。
給禄の減少と公務の心得 然るところ身分の高い者や禄高の多い者は、寛文以後、寛延前に比べますと、次第に禄高も減少し、身分が低く禄高も少ない者が相増し、そのため貸馬・貸武具に頼る者が多くなり、役筒役弓・役長柄等の役付きの者が減少しています。それ故、軍役を取っても結局手薄な備えとなっています。詮する処、当地少々込高もございま
すが、私共に於ては心得寛(ゆる)み易く、年々召出しの扶役等取り締まりは行届きません。特に江戸在番の人員配置等は、中小姓以下、殊外(ことのほか)増加し、おのづから不均等な状態が今に続き、不公平な様は明かです。既にこれは、既往の実態であり、すぐ様、改善の策が有るわけではございません
ので、願わくば、今より寛延三午年当時の当地守衛安泰の人数、分限高をもって厳重に制度を定め、その任・その職・格席共同じ員数を配置し堅く定め置かれれば、数年の後には、自然と旧に復すると思われます。
当時は誠に尾大なる諭(たとえ)、かくの如く座して勤(つとめ)を十分に果たさなければ軍役も結局手薄になり、借財も年々相増していく原因と存じます。
その上、右のように分限高増加しても、末々の者には些少の事ゆえ、誰も意に介しませんが、例を取りますと、二十石取り五人扶持にとっては却って増収となり、また上米も割下げとなるため、扶持米にては凡そ一万俵の収納の上で五百俵程となり、上米五割にても割高とはなりません。
尤も知行米をとっても二百五〇石以下は、是又割下りになりますが、一万俵にては平均四千俵ばかり上納することとなります。それ故、当時十六万余の高で五割を上納すると、僅かに二万九千俵となり、全体として上納高はありません。右割下げの法は前々よりも一段宥免であり、善法にございますが、数年も経ちますと、高禄の者は、自然と高留まりとなり、継続することが難しくなる事態も生じるのではないかと存じます。
上米の負担と影響 然るに近年風儀次第に奢侈に移り、諸事困難が多くなってきており、中には僣(せん)上が間敷き振る舞いの者もおり、私共初め末々迄も衣服着用より宴会・集会の費用や妻子の費用に至るまで度を過ぎやがて身上摺切(すりき)り、多少なりとも御用を相勤める節も、拝借金等願い、
別段に御厄介をかけ、諸式買付け方・金銀内借等の方法は、心掛け確か成らず、おのづから理の無い計算に及び、全く一己の省察薄く、一々前々仰出られ候と反対のことをしながら、概して上米の故と言い訳する有様です。かく申し上げる私共も、子細に身をふり返りますと申し訳も無いことで、誠にもって恐れ入る次第であります。
その内、貸殖利倍の術にふけり、遂には早劣の筋にも相渉(わた)る者も是又上米のため右のような手立をもって僅に凌いでいますなどと申す輩も有る始末で、畢竟自己の不覚悟・不検束に出る事柄を顧みず、咎を上米にのみ帰するに至りては、誠に不埒の心得と申すほかありません。
元来、上米を命じられる時は、夫々人馬・武役等を免除されるもので、元禄以来その時々格別の省略を必ず命じになる故、その條々を堅く守りました。素より窮屈な事ではありますが、本の知行高にて人馬・武役等厳重に負担させる手当を支給できず、その上当時収納高減少し、借財大数に増加し、極て逼迫の生活ぶりを見ておりますと、諸役免状の沙汰これ無く、その上に上米の負担が増すと、実に厳しいお時勢では有りますが、兼々厚き憐愍の思し召しをもって、特別の借入れをし、救金迄下し置かれ、しかも自らは益々難渋をお忍びなされているという実態は、下々の者、恐察致し兼ねる処であり、重々恐れ入り奉ります。
いづれにも均等の割合では六割以上が適当であると計算いたしますが、何と申しましても上米は、数年継続しておりまして、家中の者、譜代の家来などを召し拘へ居りましては、人馬を減少することも出来ず、また、世間一般の外聞にも忍び難き事であります。
上米と免米の政策 さらに旧来の借財等は、現今の家臣の不覚悟から出たものではなく、殊に近頃は、一統相応の倹約を実行しております。
前条の不次第の趣は、重々心得ておりますが、只今にわかに上増(あげまし)を命じられましては、折角追々改善に向かっている機運を取り失うのではないかと存じます。
何とか寛大なお心を持って五割のまま暫く定め置かれ、年々の状況を見て収納が、この上も減少するなら、その多寡を検証し、上・下等分に半数なり、あるいは四半数なり上増を命じられ、逆に収納が増加するなら則ち又その多寡を検証し、免米(めんまい)を施され、年々収納状況を明白にし、増
減を命じられれば、誠に公明正大にて上下の間、いささかも遺憾無きことと存じ奉ります。
則ち右の予測をもって当毛荒・用意引を本高二十分一と見立てました。
扨て又右のように分限増加しますと、おのづから免米を施す事も出来かねますので、家中撫育の為にも分限取締の対策は、第一に肝要に存じます。万一心得違いの考えをもって人減しを先途(せんど)と思慮する政事になりますと、他国にて聞き及ぶ例ですが、下々の風儀甚だ薄く成り行き、千騎の強者も一騎に当らずというような事態になる事は大に警戒すべきことで、是又至って大切なことでございます。
しかしながら、これまでの対策では、何事も分限にかまけて御勤め筋等十分な対応が打てず、則ち、公辺(幕府)の御命令があってもその命に添い難き事となります。
寛延の定式 以後は前条申上げました通り、役人共初め給人・中小姓以下の員数は、寛延時代の頃の定式に定め置かれ、その数より多い間は一切増員を命ぜられず、右の員数より不足の時は、精選をもって命じられれば、手厚い処遇となり、数年の後には寛延の頃の形態に回復する事でしょう。
その間、新知召出しや、新家召抱え等の事、大身・小身共誠に出格の功績儀これある者の外は、堅く差止められますよう存じ奉ります。
第五節:御借財(藩借財・債務)
借金の返済 借財は、当申(さる)八月改で惣高五拾六万八千余(文化巳(み)に六十二万余)、当年暮、元利三万九千返済の勘定(一万千余利・二万八千余元)で、漸く諸手節約し、米三万俵を差当てます。この米代およそ一万両に当たります。
利金に当てますと少々不足しますが、先ず是をもって利金手当と定め、その余の元入等は各々入用の筋々にて相荷なう仕組みにしております。是迄も元返しの内訳立てましたが、年賦元入等は年々確かに返済し、月割り金拝借等は、返済あるいは再借し、成るべくだけ下利(安い利子)の借入れをもって融通してきましたが、年々新に出金一万両これ無くては繰り廻し出来ないため、巳年(文化六年)改め以後は、元入れ定約の口々は年々減少してきましたが、右新たに借入れ金一万両が年々ありますので、昨今の米価等にては益々繰廻しに難渋しております。その上、右の返金筋は月割り時借等の外は、皆々至って下利あるいは無利二十年・三十年の年賦等の高にございますが、借入金の方は如何に下利であっても五・六朱以上の利息ゆえ、差し引き返済方多数にても、利金は年々少し宛増加していく傾向にあります。素より借財はその実、拠んどころ無き事態から生じていますが、是程益の無いことはありません。また勝手差閊(さしつかえ)の時は是程凌ぎ易いものはありません。例えば差当り一万金入用の処、それを借入金で調達出来れば、その節は十分の手立てとして対処できますが、翌年は元利一万千両も勘定方出金となりま
すので、一入(ひとしお) 差閊(さしつかえ)相増し、是程無益の筋はありません。
金主への対応 扨て又彼の金主共は、是をもって家業渡世をしておりますので、固(もと)より損失があっては貸し出してくれないことは勿論のことでしかし、中には大阪蔵屋敷に出入の金主は、大身上の者達であり、已に百年来の懇親を結んでおります故、当家へ貸し出している大金の利息返済につき毎々無理の断りを通しておりますが、内々に計算を試みさせてみますと、その実、彼等の利益は無い有様で、永久の懇親を能々(よくよく)申含め実意をもって厚く申し交わしますと、誠に心から納得し、求めに応じる者共でございます。
已に去巳年、手前共へ貸し出した新借五万ばかりは、元利一切相断り、今まで捨置き申しましたが、内々は一度も利束を支払わなかった口もあります。そのように耐えながら、その年、直に三万金も申し合わせ、貸し出しをして呉れた程の者達で、とかく義理を重んじ信頼を失わなければ却て当方が恥入る程の底心が顕れる経験も、度々でございます。
然しながら、借財は総て借り得と心得、手元金の有無に拘らず、又恩義をも顧みず、返金を道路に捨てるような態度の俗習がしばしばあるやに聞きおよびます。全くそのような心得はこれ無きようにしたいものです
なぜなら、一時、よんどころ無き事情で町人の私財を借入れ、公私急用の場に対応し、困難な事態を凌ぐ事が出来たならば、後々迄もその厚意を忘れざるの処、その恩義を忘れるのみならず、却って旧敵を見るがごとき態度を取り、又借入の時はあまりに奔走に過ぎ、外聞外見をも厭わず、阿諛(あゆ)百端見苦るしき事をも恥じず、専ら嘆願する術にのみ走るなどこの両方の態度は、表裏反復世間薄々の態と同じで、誠に廉恥無きの至りと申べきです。
信義を宗として 夫は扨て置き、恩徳これ有り、借財を永きに渉って返済されない事は、その実、神?の懼の例に在るごとく国躰の所預軽からざることにございますので、一日も捨置くことのないようにしたいものです。しかし、当時のごとく勝手不如意の時ゆえ、いかんとも俄に処置することが出来ないため、則ち差し当たって実有突((実))無の処、内外多少
の隔てなく信義を宗として対処し、できる限り義理を尽し、十分ではなくとも、則ち天道に恥じることのなく誠実をもってゆとりの有る時、無い時それぞれの事情に随い、少しも偽わらず約束の儀、堅固に守るならば、この上、不時の水旱・非常の公役等突発しても夫々対応策もおのづから相調うこ
とと存じます。是又必然の勢いと存じ奉ります。
もし又此において信義を失墜せられること相重りては、たとへ少々の儲けがあっても、結局当面の恥辱を引寄せることは自然の流れと存じます
この一途、所系亦軽からざる事に存じます。
むすび
右五等の再建計画の趣旨は、結論から言えば実有実無、入(いる)を斗(はか)りて出(いず)るを為(おさめ)るの考えに基づき、何れの方法も均等の分量に帰結させる心得にございます。
かくの如く節倹計画を立ててもなお各分野不足一万六千ばかりあります。この上、臨時支出も突然発生する事もございますので彼是二万金の不足が生じてきます。なお衆議・衆評自他共に耳を傾け、その趣意をよくよく打合せ、益々難苦を忍んで頂き、内外一致上下均一に聊かも等閑に付すること無く相守られますなら、この四ケ年来米価下落等にて、年々少からざる借入が生じても少々は新古の借財方減少傾向も相見へ、また収納も稍(やや)回復する勢いですので、今より端を発し貞固潔白に各分野改革が進みますと、数年の後は分限・節約の効果も現れ、成箇も連々増加し、借財も追々減却致します。その間、米価等自然と上昇する見込みも立てば、上・下の者の生活の余裕も自ずから生ずる事は、是又必然の理と存じ奉ります。
五ケ年も経ちましたが、この再建方法をもって右の帳面通り改革案を実行し、一歩一歩前進する事ではないでしょうか。
最初に申上げましたように、財政の不如意は、積年の弊害でありますから、決して一朝一夕に回復できるものと、返すがえすもお考えにならず、早急に結果を出すことを望まず、役人ども初め目の前の小さな功績をあげることに捕らわれず、当面の道理を堅く相守り実行すること専一の事と存じ奉ります。
私義、駑鈍(どどん)の力ここに極(きわまり)候義、幾重にも御明断成し下されますよう存じます。成功も不成功も達成も不達成も思召の向背に基づきますので、その影響する勢いは、自ずと現れることと存じます。