近世後期の姫路藩
江戸時代の後半に姫路藩を支配したのは、譜代の名門と呼ばれる酒井雅楽頭(うたのかみ)家です。酒井家は藩主として122年間、姫路藩を統治しました。このため近世後期の姫路藩の研究は、酒井家藩政の研究となります。歴史講座1では、藩政史研究の入口として酒井家とはどんな大名家であったか、何を家門の誇りとしたか等、基本的なところから解説を始めたいと思います。
酒井家の誇り
右の系図を見てください。譜代名門と言われる酒井家の誇りを説明するために使う系図です。徳川家康の血統から解説しましよう。○印の人物に注目して下さい。徳川家の先祖を遡ると、親氏(ちかうじ)に行きつきます。親氏には二人の子どもがいました。兄の広親(ひろちか)と弟の泰親(やすちか)です。伝承に依れば、親氏は、戦乱を逃れて三河国岡崎平野の酒井村へ逃れてきます。ここで百姓与左衛門の娘との間に出来たのが広親で、その後、親氏は松平郷へ移り住み松平太郎左衛門家の養子となり泰親を設けます。広親と泰親は、親氏を父とする異母兄弟の関係にありました。このように先祖において徳川家と血縁関係にあったというのが酒井家が誇りとする伝承です。酒井家の家系は、広親の子どもの氏忠(うじただ)を祖とする左衛門尉(さえもんのじよう)家と家忠(いえただ)を祖とする雅楽頭(うたのかみ)家の2つの血統に分かれ、姫路藩酒井家は、雅楽頭家の血統にあたります。
永禄4年(1561)、6代正親(まさちか)の時に徳川家康から西尾城を賜り12騎を付けられ城主となります。ここから伝承ではなく正史となります。そして、重忠(しげただ)の時代になって家康から前橋城を拝領し酒井家初代の藩主となります。4代目の忠清(ただきよ)は、下馬将軍と呼ばれるほどの権勢を振るい大老にまで登り詰めます。次の忠挙(ただたか)は、前橋に好古堂を開設するなど藩政の充実の力を入れます。
系図では、枠外になりますが、忠挙の4代あとに酒井忠恭(ただずみ)(古岳院)が藩主を相続します。忠恭は、前橋で藩主を18年間務めた後に姫路藩へ所替えになります。この間、8代将軍徳川吉宗の厚い信任を得て、大坂城代から老中へ、そして、老中筆頭へと順調に出世し、延享5年(1748)には朝鮮通信使の接待にあたるなど政治経験豊かな殿様でした。しかし、酒井家の悩みは、表高15万石の割に実収高が少ないことでした。ここから所替の願望が「積年の課題」となっていました。
初代酒井忠恭の入封
酒井家の所替えが実現したのは、寛延2年(1749)1月15日のことです。この年は、姫路藩にとって大変な年でした。翌日の16日から約1ヶ月に及ぶ江戸時代で最大の百姓一揆に見舞われます。一揆の混乱が収束した後、5月21日に酒井家は姫路へ移ってきました。しかし苦難はまだ続きます。所替え一ヶ月ほどして7月に今度は、江戸時代最大の自然災害「寛延の大洪水」に襲われます。記録を見ると、城下の流出家屋161軒、溺死者は408人を数え、つぶれ家は半壊も含めて300軒を超える大被害が出ました。城下全体が水没したのです。この危機を名采配で捌いて領民の信頼を獲得したのが家老の河合定恒でした。