2. 酒井家の所替と刃傷事件

所替と刃傷事件

 酒井家の所替えの願望は、忠挙時代からの積年の課題でした。しかし、河合定恒は、前橋からの所替えに大反対の家老でした。所替えの混乱が収まった2年後に事件は起きます。
 寛延4年(1751)7月、参勤交替で藩主酒井忠恭(ただずみ)は国元に帰っていました。所替えに功績のあった二人の重臣犬塚又内(ゆうない)と本多民部左衛門も藩主に随行して帰城しています。二人が御用を済ませ、江戸へ出立する時、定恒は、江戸表への隠密の御用があるので相談をしたいと自宅へ招きます。そして、二人をそれぞれ別室へ案内して「御主(おぬし)は御家に仇(あだ)成す者である」と殺害し、自分もまた自害するという藩内を震撼させる凄惨な事件が起こりました。「姫路藩士騒動記」という史料はじめ「酒井忠儀録」や「紀陽陰語」等という題名で事件の顛末が記録され流布しています。

「姫路藩士騒動記」

 家老の河合定恒にとって前橋城は、権現様(家康)から直々拝領した由緒ある城でした。君臣の忠義を重んじる定恒にとって、家康公の遺訓に背き前橋の城を捨てて所替えを決定することはとんでもないことでした。このため当時の儒教的な道徳観では、家老定恒は、忠義に生きた武士の鑑としてもてはやされました。しかし、一方の犬塚と本多は積年の課題を成就したにもかかわらず権現様の遺訓に背く奸臣として評判を落としました。事件は、家老定恒の「乱心」として処理され、御家騒動にはなりませんでした。河合家へは、家禄没収・御家断絶の沙汰が下りました。

「姫路藩士騒動記」の補足資料はこちら

姫路藩の分断

 所替えは、藩士にとって重大事件です。この重大事が国元に相談無く突然決定されたことが、主たる原因でした。大多数の藩士にとって突然の姫路への所替えは、歓迎されるものではなかったでしょう。反対を唱えることが出来ない藩士は、定恒に内心深く共感する者が多かったと思います。「酒井忠儀録」と言う表題が就くのは、こうした藩士の心理が反映されています。
 この事件は、その凄惨さと表向きに批判が出来なかったため酒井家ではその後事件に触れることは憚られました。しかし、姫路への所替えは、酒井家にとって積年の課題を解決する出来事で、「御得替(おとくがえ)」という表現で、その功績が永く顕彰されています。徳川家への忠義と現実的な財政問題をいかに解決するかという課題は、藩を分断する内容を孕んでいたのです。

酒井家のエリート意識

 酒井家は、江戸幕府において「溜間詰(たまりのまづめ)」という名誉ある地位(殿席(でんせき))を得ていました。譜代の名門というエリート意識は、ここから形成されています。しかし、酒井家は藩主が交替した時、この名誉ある家格を失います。このため常に徳川家への実効ある忠義の証(あかし)が求められたのです。同じ譜代でも井伊家の場合を見ると、藩主が交替しても溜詰の家格を失うことのない、「常溜(じようだまり)」が保証されていました。
 酒井家の場合、藩政の現実的な課題の解決にあたっても徳川家への忠義と両立するものであることが必要でした。この二つの課題が背反する時、酒井家は藩の分断という悲劇に見舞われています。これを責任倫理と信念(心情)倫理の対立という形で分析しました。酒井家の刃傷事件も幕末の姫路城開城後の分裂もこの倫理観の対立が原因となっています。譜代の名門というエリート意識に内包された矛盾だったのです。次回からは、亀山雲平の残した「顛衣余録」を使っていよいよ本講座の主要テーマである幕末維新史の解説に入って行きます。

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