顛衣余録「正記」
嘉永6年12月1日、藩主側近として学問相手を命じられた敬佐は、この日から「顛衣余録」の記録を「正記」とし、それまでを「前記」として分類しています。ペリー来航という国を挙げての大騒動が続くの中、名誉ある大抜擢に浴することとなった亀山敬佐および亀山家では、この年は終生忘れがたい誇らしい年になったことと想像します。しかし、激動の幕末は始まったところでした。
嘉永7年ペリー2度目の来航
嘉永6年の後半は、ペリーが再び来航するということで、幕府は、戦いに備えて大騒ぎとなっていました。1年後という約束でしたが、年が明けると直ぐ様ペリーはやってきました。「顛衣余録」正月4日の記録を見ると、「在番御人数組頭米津一左衛門・細井市大夫より廻章到来」として異国船渡来の時の姫路藩警固場所が老中阿部伊勢守(正弘)から内達されています。正式には、正月16日に「公儀よりお達し左の通り」として「鉄砲洲・佃島 酒井雅楽頭 右時宜次第出張には候え共場所の儀は兼ねて申し達し置き候」と記されています。
また、22日には「長崎表ロシア船出帆致し候趣、公儀より御触れこれ有り」と、対馬に長く滞在していたデイアナ号の出港を記録しています。デイアナ号の動きは、南下政策をとっていた当時のロシアとトルコ・英・仏との間で起こったクリミア戦争に関係しており、緊迫する対外情勢がもたらしたものです。
亀山敬佐の動向を見ると、17日に敬佐は「朝素読に出席仕り候処、お紙入れ一つ御手自らより拝領、先日お固め御人数の儀に付き書き付け差し上げ候処、その御賞賜と仰せ聞かされ候」とあり、近習としての勤めを果たしたご褒美を拝領しています。
姫路藩へ出動命令
姫路藩への出動命令は、正月27日に降ります。「27日夜、お警衛お人数一番手の分、佃島・鉄砲洲へ出張」とあります。そして、2月11日には「お側向き一統お固め場所拝見」と敬佐はじめ近習の者は、姫路藩の警固場所を見分しています。しかし、同月28日の記録を見ると、「八時過ぎ、お固め御人数退陣御中屋敷へ引取る」とあります。出陣後、1ヶ月ほどで退陣しています。これは、日米の交渉が進み和親条約締結の見通しが立ったためです。外交努力によって対外戦争は、避けることが出来たのです。3月3日、日米は平和裡の内に和親条約を締結しました。この時、条約締結を決断した老中は信州上田藩主松平忠固(ただかた)が勤めていました。4代姫路藩主忠実の子です。文政12年10月、姫路藩から上田藩へ婿養子に出て藩主となった人物です(講義6・7参照)。松平忠固は、老中筆頭の阿部正弘と共に開国論を主張し条約締結を推進した閣老として知られています(『明治維新人名辞典』P923)。この時の姫路藩士の出動の様子は、「行軍図絵巻」として酒井家に残っています。