13.「行軍図絵巻」

忠顕溜詰拝命

 3月3日の日米和親条約の締結によって我国は、長い鎖国時代が終結し、下田・函館の2港を開き開国と交易の時代が始まりました。嘉永7年(1854)4月14日、姫路藩は出動した藩士を巣鴨下屋敷に集合させ、軍事調練を行い解散式を挙行しました。

「行軍図絵巻」序、1~4は姫路市城郭研究室所蔵

若い藩主忠顕の側には実父の三河田原藩隠居三宅土佐守康直が同席しています。忠顕の後見人を自負していたのでしょう。学問相手として随行した敬佐は、この時の様子を次の様に記録しています。
「4月14日 巣鴨御屋鋪において物頭調練、御覧これ有り、 御供拝見。その節、三宅御隠居様入らせられ御目見席上にて詩 作御覧に入れ奉り候」(「顛衣余録」①正記4/14)
敬佐は、三宅康直に詩作を献上しています。「行軍図絵巻」の冒頭にある「行軍図巻序」の詩文は、この頃に作成されたと考えて良いでしょう。4月27日には、「殿様御用召しに付き、明28日6時、お供揃いにて御登城」とあり、この日「御座の間において御懇(ねんごろ)の上意仰せ蒙らせられ溜詰(たまりづめ)」を拝命したと記しています。

溜之間

 ここで江戸城に登城してきた大名の控えの間について説明しておきましょう。大名の控えの間を殿席(でんせき)と呼びます。これは、大名の家格を示します。溜之間は、家臣に与えられた最高の座席で、この席の大名を「溜詰」と呼び、「常溜(じようだまり)」と「飛溜(とびだまり)」がありました。(『徳川幕府事典』P77)。酒井家は、名門の譜代大名として飛溜の格の待遇を受けてきました。しかし、3代忠道(ただひろ)の時代は昇格できませんでした。4代忠実(ただみつ)の時代になって文政4年11月(1821)、30年ぶりに溜詰の格に昇格を果たします。翌5年正月、忠実は国元から辻川組大庄屋の三木藤作や大年寄国府寺次郎左衛門などを江戸に招き盛大な祝典を催しています(「大庄屋三木家資料集1「江戸紀行」)。この年6月、11代将軍の娘喜代姫と婚約成った5代藩主忠学(ただのり)以降は、常溜と言って良い待遇を受けています。

行軍図絵巻
絵巻に付けられた「御書付」

 行軍図絵巻の冒頭には、藩主源忠顕の書が掲げてあります。嘉永7年(1854)仲冬とあるところから11月頃に完成した絵巻と推測します。絵図は、記述から判断して狩野永秀の手になるもので本文は亀山敬佐の筆です。この絵巻には、次のような「書付」が添えられていました。内容を要約すると、「この巻物3巻を晴光院に御覧に入れたところ本丸の上様も内々に御覧になり桐の外箱を拵え、永々秘蔵取り扱うべき事」という文言が付され返された、というエピソードが記録されています。本丸とは、江戸城を指します。ですから上様とは、13代将軍家定を指し、晴光院の甥に当たる関係から「御書付」の内容に納得がいきます。安政2年(1855)3月の記録です。

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