酒井忠実の存在
酒井忠実(ただみつ)(祇徳院(ぎとくいん))は、これまで余り注目されて来なかった藩主です。しかし、その在任中に成し遂げた実績を挙げて公平に評価をすると、歴代の姫路藩主の中でも特筆すべき功績があり、名君と言って良い殿様ではないかと私は考えています。忠実時代は、幕末の姫路藩を理解する上で重要な鍵となる史実が伏線として存在します。忠実時代を少し振り返っておきましょう。
忠実は、安永8年(1779)10月に誕生し嘉永元年(1848)6月に70歳で亡くなります。健康と長寿に恵まれ、26人の子どもをもうけます。文化11年から隠居する天保6年(1835)まで藩主在任中の21年間の実績を見ると、姫路藩の最も繁栄した時代を築いた藩主と言えます。
忠実と河合隼之助
第一の功績は、42歳になる家老の河合隼之助を抜擢して財政改革に着手したことです。財政危機に陥った当時の姫路藩の状況は、「忠道憂苦の余り、病に罹り藩政を見る能わず、弟忠実をして代理せしむ」(「河合寸翁大夫年譜」4頁)と記録されています。河合隼之助を起用したのは、藩主代理を務めていた忠実でした。これ以後、忠実は一貫して隼之助の政策を信任し、隼之助はその信任に応え財政再建を成就させたのです。隼之助の改革の成功は、忠実の信任が有ったからこそと言えます。
隼之助の改革
隼之助は、文化9年(1812)に改革5年目の総括文書として「新御積訳書」(しんおつもりわけがき)を纏め、初期の成果と課題を明らかにし、改革政策を継続するか否かを殿様に次の様に問いかけます。「私儀、駑鈍の力ここに極まり候義、幾重にも御明断成し下されますよう。成るも成らざるも遂も不遂も思召しの向背に基づきます」と。この時、藩主はまだ忠道でした。
忠道と隼之助
振り返ってみると、3代藩主忠道時代は、隼之助にとって不遇の時代でした。忠道は、寛政の改革に倣って①家中の倹約と風俗の矯正、②農業の奨励と農村における商業活動の抑制に力点を置いた藩政を進めていたからです(『姫路市史』第4巻P30) 積極的な経済政策の導入を主張する隼之助の意見は、藩主および側近達の意見と相容れなかったのです。ここに忠道時代に隼之助が重く用いられなかった原因があります。
ところが、寛政9年(1797)家老高須隼人家に凶事が発生します。嫡男の千虎之助(ちこのすけ)が若くして亡くなり、嫡孫承祖(ちやくそんしようそ)という形で3歳になる孫の定?(さだまさ)が高須家を相続するという事態が発生したのです(高須家系図参照)。これまで指摘されなかったことですが、家老高須をリーダーとした側近政治は大きな打撃を蒙り、藩政は低迷期に入っていきました。このため文化5年の財政危機に当たって河合隼之助を起用せざるをえなくなったのです。
財政再建に着手した隼之助は、文化6年に「固寧層」を、7年に「冥加銀講」を設立し、木綿の「江戸直売」を実行し、生業資金の貸与などの政策を実行して、商品経済への適応ををすすめ、農村の自立と復興成し遂げます。そして、文化9年に「新御積訳書」を纏め初期の改革の成果と課題を示しました。忠道は、この成果を見て隼之助の進める積極的な経済政策を承認しました。