3. いざ昌平黌へ(「顛衣余録」第1 巻)

「顛衣余録」第1巻

 「講座3」からは、一気に幕末の姫路藩の紹介に入ります。酒井家の入封から幕末に至る時期は、姫路藩では河合隼之助の財政再建という大事業がありますが、文化年間から文政・天保年間に至る隼之助の改革については、別の機会に解説するつもりでいます。
 幕末の姫路藩を解説するために使用する史料は、大目付を務めた亀山源五右衛門美和(よしかず)(雲平)が「顛衣余録(てんいよろく)」と名付けた23 巻からなる古文書の一次史料を使います。これは、今のところ姫路藩では唯一の幕末維新史の具体的な出来事を記録する史料と言っていいでしょう。嘉永4 年(1851)から明治6 年(1873)に亘る膨大な記録で、姫路藩政の展開を知ることが出来ます。
 亀山雲平は、「顛衣余録」では、通称の敬佐(けいすけ)を使っています。第7 代藩主酒井忠顕から10 代忠邦に至る4 代の藩主に仕えた重臣です。7 代藩主忠顕時代には、近習席学問相手を務め、8 代藩主忠績から9 代忠惇時代には、大目付を7 年間務めます。10 代忠邦の下では、学問世話係を務め、学問を通じて藩政に貢献し、幕末の姫路藩政の隅々にまで通暁した人物です。

佐藤一斎門下生へ

 第1 巻の日記の冒頭を引用しておきます。「嘉永四年辛亥春2月18 日、昌平坂御学問所へ入寮、此の日佐藤一斎先生へ入門、麻上下着用束脩百疋呈上、菅野狷介紹介」とあります。この日、姫路藩から選抜された4人の遊学生が昌平坂学問所に入門しました。同遊の4人として登場するのは、亀山雲平(敬佐(けいすけ)、30 歳)、本多蔵次郎(19 歳)、羽田省一郎(27 歳)、田嶋寿太郎(21 歳)です。

亀山雲平

1 度に4 名もの遊学生が送り出されるというのは、異例のことでした。亀山と本多は佐藤一斎門下生となり、羽田と田嶋は古賀恫庵門下生となりました。この時、昌平黌側で4 人を出迎えたのは、同じ姫路藩士で書生寮の舎長を務めたことのある菅野狷介(潔、白華、29 歳)でした。四人の遊学生にとって緊張した栄えある一日であったことと思います。
 何故この年に姫路藩は、四人もの遊学生を江戸昌平黌へ送ったのでしょうか。その背景を探っていくと、四代藩主酒井忠実(祇徳院)の時代に遡ります。

酒井忠実の存在

 『姫路市史4巻』(679 頁)の記録を見ると、姫路藩で一度に4 人以上もの遊学生を送り出したのは、約40 年の昔、文化11 年(1814)にまで遡ります。この年は、藩主に4 代目の酒井忠実(祇徳院)が就任した年でした。家老高須隼人以下6人もの重臣が林家塾に入門しています。当時姫路藩は、藩主忠実の信任を受けた河合隼之助の財政再建に取り組んでいました。隼之助は、文化9 年に改革5年目の総括文書として「新御積訳書」を纏め、初期の改革の成果と課題を明らかにし、学問を奨励し人材の育成に取り組もうとしていました。文化13 年には、好古堂を大手門前に移し拡張しています。
 酒井忠実は、余り注目された藩主ではありませんでしたが、この藩主の時代に姫路藩は財政再建を成就し、家格の復旧を成し遂げ、その成果は、幕末に結実しました。名君に数えられなかったのが不思議と言うべきでしょう。ここで幕末の姫路藩政にまで影響を及ぼした忠実時代をもう一度振り返ってみましょう。

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