7. 忠実の親族関係

信州上田藩松平家

 次に忠実の親族関係を紹介しておきましょう。本藩の姫路藩は、天保年間に家格が復旧してから自動的に名誉職である溜詰(たまりづめ)を拝命していますが、姻戚関係のある支藩が幕府の要職を占めています。まず、幕末に老中を2度務めた信州上田藩主松平忠固(ただかた)家との関係を新たな史料「顛衣余録」の記録を上げて紹介しておきます。
明治4年11月、10代藩主酒井忠邦はアメリカへの留学を志しを持っていました。この日、家扶斉藤五平の来訪を受けた雲平は、忠邦の意志を五平から伝え聞き、次の様に記録しています。
「旧知事様(忠邦)御洋行に付き、信州上田元知事君(忠礼)、伊賀守様御舎弟□三郎様(忠厚)と申され候御方を御養子御願い成され候(中略)、此の儀金芝老公様(三宅康直)にも御周旋の由、且つ右様遊ばされ候て御退隠の上、御洋行と申す御内意、武井逸之助をもって三条殿へ伺われ候」(22巻11月25日記事)
信州上田元知事とは、松平忠固の嫡男忠礼(ただなり)を指します。伊賀守舎弟とは、二男の忠厚を指します。金芝老公とは、三宅康直を差します。忠邦は、隠居して家督を譲り、洋行を果たそうと考えていたようです。武井逸之助(守正)をもって三条実美に伺いを出したと言うことです。結果は、隠居には及ばずと言うことで12月に忠邦は、アメリカへ留学します。姫路藩と信州上田藩・三河田原藩との親密な関係が判明します。

大給松平氏
『もっと知りたい酒井抱一』

 もう一つの重要な藩として西尾藩大給(おぎゆう)松平氏を上げておきましょう。右の系図から判断して姻戚関係は忠持ちと里姫(玄桃院)の時代に築かれています。玄桃院は、2代藩主忠以(宗雅)と抱一の母です。忠実から見ると、祖母にあたります。大給松平氏は、6万石の譜代の大名で歴代の老中を輩出しています。玄桃院の父乗邑は、8代将軍吉宗の進めた享保の改革で老中を務めています。父の乗佑の時代に三河西尾藩6万石の藩主となります。弟の乗完は、松平定信の進めた寛政の改革では老中として尽力しています。また俳諧に優れ宗雅とも交流が深く連歌の会では秀井の雅号で交流がありました。幕府公認の学問所昌平阪学問所を設立した林述斎は、従兄弟に当たります。学問所教授の佐藤一斎は、述斎に仕えた岩村藩の家老家の出身です。姫路藩は、この頃に大給松平氏との親密な関係を築いたと考えられます。
 乗完の嫡男乗寬は、文化5年9月に老中となります。その子の乗全は、嘉永元年と安政5年に2度老中を務め、上田藩主松平忠固と同席を勤めます。文久3年に老中となった牧野忠恭は乗寬の息子で、乗全の弟にあたります。
 本藩の姫路藩は、溜詰という名誉職にあり、幕閣には上田藩主、西尾藩主が固めています。幕政に大きな影響をもったことと思います。ただ姫路藩が幕末に大きな存在感を示せなかったのは、何よりも藩主の早逝と言う悲運に見舞われたためと思います。

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