忠実の逝去
弘化元年(1844)11月に5代藩主忠学が37歳で急死し、酒井家を相続したのは、越前敦賀藩主忠?(ただます)の子で15歳になった忠宝(ただとみ)でした。そして4年後の嘉永元年(1848)6月に隠居の忠実(ただみつ)(祇徳院(ぎとくいん))が、70歳にて亡くなりました。忠実が亡くなる頃から姫路藩には、不幸が重なっていきます。6代目忠宝は嘉永6年(1853)9月に、7代目忠顕(ただてる)(顕徳院(けんとくいん))は万延元年(1860)10月に25歳という若さで早逝します。二人とも忠実の実の孫でした。すでに天保12年(1841)には、河合寸翁が亡くなっており、姫路藩のリーダーシップは脆弱なものとなっていたと思われます。
さらにこの嘉永元年には、家老の河合良翰(さとかた)(屏山)が幕府から直々に謹慎処分を科されています。理由は、判明しませんが、姫路藩はリーダーたるべき人を失っていたことが解ります。一度に4人もの遊学生を江戸昌平黌へ送ったのは、こうした危機感から人材育成の大切さに目覚めたためではないかと推測します。あるいは先行きを案じた忠実の遺言であったかもしれません。
遅咲きのエリート
ここで亀山敬佐(けいすけ)(雲平)の前半生を紹介しておきましょう。亀山敬佐は、文政5年(1822)閏正月20日に亀山百之(ももゆき)の次男として誕生しています。天保2年(1831)に父百之が亡くなり兄の剛毅が亀山家を相続します。敬佐が10歳の時でした。学問の手ほどきは、藩校の好古堂で角田心蔵について学んでいます。そして、天保10年(1839)18歳の時に「口読手伝い」を、12年には、書物預り役を命じられ、天保13年に好古堂書生寮の肝煎りを拝命しています。しかし、天保14年、敬佐22歳の時に兄の剛毅が病死したため亀山家を相続することとなりました。この相続では、次の様な記録が残っています。
「11月21日、亀山敬佐学問出精のため養父の知行を減ぜずして家督を相続せしむ」(「酒井家史料109巻」)、 敬佐は、学問出精の貢献により特別の思召しをもって140石を相続し、焼火の間、番入りを命じられました。
その後、25歳になった弘化3年(1846)12月に好古堂教授を拝命し、嘉永3年(1848)12月、29歳で昌平坂学問所書生寮への入門が命じられ、翌4年2月、佐藤一斎門下生となりました。
亀山敬佐(雲平)が昌平坂学問所に入門した時は、すでに30歳になっていました。4名の中では最も年長で異例の抜擢といえます。同じく佐藤一斎門下生となったのは、本多蔵次郎で19歳の青年でした。家老本多意気揚の親戚にあたります。彼もまた優秀であったと見えて尊皇攘夷派の志士として成長していきます。