藩主在城の正月行事
秋元正一郎と菅野狷介の功績の紹介に寄り道をしましたが、ストーリーを安政3年に戻します。新藩主忠顕の初入国には、正月行事が詳しく記録してあります。ここで忠顕の動向を元旦から日付を追って紹介しておきます。
亀山敬佐らの藩主側近は、朝六時(午前6時)に「お供揃い」として藩主の私邸「東御屋敷(ひがしおんやしき)」(現代の動物園東にあった建物)に出頭しています。ここから、忠顕の正月行事が始まります。(記録の引用は、出来るだけ原文の趣を残し抄出として現代語訳を心掛けました。〇印は引用文)
〈安政3年丙辰〉
〇正月元旦:暁六時、御小姓番部屋へ出席、(殿様)は、一献 お召し候。夫れより御居間にて三献のご祝儀これ有り、近習 席の者は、南お縁側にて並ぶ、夫れより御玄関までお見送り 仕り、御本城へお入りになり御居間に着座された。
ここで召出しの御家老・御年寄・御列座の面々より御礼これ 有り、御奏者番より御物頭・取次などの者の披露があった。
夫れよりお廻り相済みお帰りになった(②1/1の記事)。
「お廻り相済み」と記し、詳細は記録していませんが、元旦のの挨拶の後、御本城の「鶴の間」はじめ「向屋敷」から「西の丸」「天守」等の見分があったのではないかと推測します。
〇2日:6半時お供揃い、5時御入御(にゆうぎよ)。鶴の間南側に並び居り候、元日・2日とも帰り際に御小姓番部屋へ一寸挨拶。
〇3日:5時お供揃いにて御本城へ入御、御盃下される、御 近習席まで総出、袱紗・小袖・麻上下着用。
〇4日:同刻、お供揃いにて御本城へ入御、寺社お礼これ有り、着服同断。
〇■■日(十四日か?):5時お供揃いにて御本城へ入らせられ、(中略) 芸事奉行、力丸五左衛門・境野求馬両人熨斗目(のしめ)麻上下出席、矢初め申上げ相通し候、右相済み候てより芸事奉行2人召出し滞(とどこおり)無しと御意(ぎよい)これ有り、恐悦至極とお礼申上げ候。
2日・3日・4日の記録は、簡単に略していますが、いずれも正式の礼服を着用しており、中でも3日は、「近習席まで惣出」となっており、お目見え格以上の藩士の出席があり全員に盃が振る舞われました。4日には、寺社の御礼を記し朱子にちなんだ白鹿洞の講義がありました。夕刻になって8半時には、能の謡(うたい)初めがあったと記しています。ただ、ここから記録は8日まで飛んでいます。この間の行事は記録されていませんが、町在(町方・村方)の代表である大年寄や大庄屋など有力者の挨拶があったと思われます。
この記録は2度目の帰国時に詳しい記述がありますので、第8巻の記述に譲る事といたします。
14日には、芸事奉行の力丸五左衛門と境野求馬が「矢初め」の行事を御本城で行っています。藩主忠顕が自らこれを検閲し「滞りなし」と申し分のない演技を賞賛しています。