26.菅野狷介と安政の大獄

暗転する運命

 蝦夷地の探索は、狷介にとって幸運ではなく大きな災いをもたらす結果となりました。姫路藩で唯一人安政の大獄に連座する藩士となったからです。幕府に政治犯として捕縛され拷問を受け健康を損ない、5年近く国元幽閉の身となりました。文久3年(1863)正月に赦免されますが、明治維新まで姫路を出る事はなかったようです。時代を先駆ける者の不運と言うべきか、ここでも姫路藩は有能な人材を生かす事が出来ませんでした。ここで菅野狷介(白華)の略歴を紹介しておきます。

菅野狷介略伝
再建された「申義堂」

 菅野狷介は、文政3年(1820)2月6日菅野真斎の3男として高砂に生まれました。父真斎は、通称を武助といい、幼少より学問に秀で安芸国福山に赴き菅茶山に学び、頼春水(山陽の父)と交友を持ちます。さらに京都に出て医学を学んでから高砂に帰り、申義堂の教授となりました。文政10年(1827)には、姫路藩家老河合寸翁に招かれ仁寿山校の教授に就任します。頼山陽が仁寿山を訪ねるきっかけは、真斎との交友があったからです。後に姫路藩尊攘派のリーダーとなる河合惣兵衛は、この頃仁寿山校で真斎に学んだ志士です。狷介は、父に従い仁寿山校の傍らに住み学を究め、京都・摂津に師を求め医学を学びますが、次兄が早逝したため菅野家の分家の祖となりました。

仁寿山校略図
昌平黌舎長へ
姫路市史第4巻P684

 天保11年(1840)、菅野狷介(白華)は21歳にして藩命を受け、昌平坂学問所古賀?庵門下生となります。そして、嘉永3年(1850)昌平校書生寮の舎長を務めています。「北游乗」の記録で狷介は、函館で「子溌(しはつ)」(玉虫左大夫)に会っていますが、玉虫は、書生寮の舎長を務めた前任者でした。翌年、亀山敬佐ら4人の姫路藩士が入寮してきて彼等を迎えます。嘉永6年(1853)6月のペリー来航時には、賄い奉行兼筆談役として芝・高輪方面に出動しています。
 安政2年(1855)10月2日、江戸大地震に遭遇しますが、わずかに災難を逃れます。この時、藩主忠顕は、参勤の勤めで国元に戻っていました。狷介は、この暇をぬって東北・蝦夷地の探索を思い立ち、翌年2月、海岸防衛策の調査を藩庁に願い出、4月25日、蝦夷地に向けて出発します。「北游乗」は、先に記したようにこの時の記録です。

安政の大獄

 当時、蝦夷地の状況を詳しく知る者は少なく、狷介は、非常に珍しい存在でした。しかも昌平校に長く在学し舎長を務めた人物でしたから諸藩の重臣とも交流があり、中でも親交を深めていた人物に水戸藩家老安島帯刀がいました。藩主の水戸斉昭は、ことのほかフロンテイアの蝦夷地に注目していた殿様でした。蝦夷地から帰って療養をしていた狷介は、斉昭の命を受けた家老安島帯刀に求められるまま親交を深め、療養中に国事の憂いを認めた書状を交換していました。これが安政5年9月から始まる大獄に連座する原因となりました。
8月の「戊午の密勅」の嫌疑を受けて水戸藩への弾圧は激しくなります、水戸斉昭は謹慎の身となり、安島には切腹の沙汰が下されました。安島との交流があった狷介も交換した書状が露見するに及び、10月には捕縛され幽閉の身となりました。狷介の略歴を見ると、幕府の糾弾は厳しく「白華(はつか)(狷介)病中鉄窓の人となり、遂に其の生歯を悉く抜き取られ、わずかに死一等を免がる」と激しい拷問を受けた記録があります(「姫路藩勤王派志士履歴略記」播磨学紀要24号P220)。翌年の2月26日、姫路に禁固されること5年に及び、文久3年1月4日、赦免されました。

本間精一郎の訪問

 安政6年6月23日、狷介の身を案じて江戸上屋敷に尊攘派の志士として知られた本間精一郎が訪ねてきました。藩主の学問相手であった亀山敬佐が対応しています。敬佐は、本間の用件を次の様に記録しています。「箕作玄甫(みつくりげんぽ)方より菅野狷介を指し尋ね参り、狷介より添書き持参にて三宅様御重役松岡次郎亡命(5年1月に死去)の後、次郎の母ならびに妻は、糊口まかり在り、右の高名相立ち候様」(⑦6/23)との嘆願の申し送りにやってきました。本間と松岡は懇意の由と敬佐は記しています。本間は、川路聖謨(としあきら)に仕えた尊攘派の志士です。松岡は、田原藩三宅家で渡辺崋山の後を継いだ家老で、渡辺崋山の娘を娶っています。母と妻がその後、細々と逼塞した生活を送っているため、その救済を依頼するために来ました。
 この様な姫路藩士の交友関係を見ることで姫路藩の幕末の動向が見えてきます。亀山敬佐は、先に紹介した会津藩士南摩綱紀と特に親しかったようですし、菅野狷介の交友関係を見ると、斉藤馨・玉虫左大夫等仙台藩士との交流が多いです。秋元正一郎は、江戸在番中に前田夏蔭と親交を深めています。昌平校を媒介にした各藩有志との交流が多いですが、藩主の幕政参加のアドバイザーとして諸藩士との交友が役立ったと思います。幕末の姫路藩の政治的な立ち位置を解明するヒントとなります。

好古堂副督学
菅野狷介(白華)の墓

 狷介は、大獄以前から患っていた病が癒えず体調不順が続いたようで、その後も大獄での拷問や国元での幽閉で健康が優れなかったと見えて、その後国元を離れることはありませんでした。赦免後は、好古堂の福督学を拝命し、亀山源五右衛門の相談役として藩政および教育に貢献しています。
 慶応4年(1868)正月、姫路藩は鳥羽・伏見の戦いの後、新政府に恭順することを選び無血開城を決断しました。菅野狷介は2月、兵庫県に召され明親館の教授を務めます。この頃に兵庫裁判所総督東久世通禧(みちとみ)や伊藤博文に見える機会を持ったと推測します。明治3年2月、新政府へ徴士として召され外務省勤務を命じられました。28日、病床にありながら出仕を求められ兵庫駅まで到着しますが、病が重くなり3月8日不帰の客となりました。髙砂十輪寺に葬られています。大正8年11月に特旨をもって従5位を贈られました。尊攘派の志士に遅れることになりましたが、同じ11月、河合寸翁には従4位が送られています。

髙砂の十輪寺

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