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三木市「別所長治像」

先日、三木市へ行ってきました。戦国時代末期に、播磨地方最大の激戦があったところで、法界寺というお寺に別所長治像が新しく建てられていました。馬好きの自分には、この像は現実をうまく表現してると思われました。馬が小さく見えますが、その当時はだいたいがこのくらいでしょう。これでも当時の日本では高級車だったろうと思います。

私の住む上郡町には、彼の子孫だという長治(ちょうじ)家があります。

もう1か所、三木市の外れの志染(しじみ)の岩室(いわむろ)というところがあります。古代の歴史を物語っていまして、ウソかマコトか第23、24代の天皇がここに匿われていたとのこと。後の天皇になる兄弟を、この岩室から都へ連れて行った人物、それが伊予の久米部のオダテとか・・神話の時代ですが。

私も粂という字が名前についていますので、久米(粂)部とか久米族とは何であったのか、知りたくてしかたがないのです。

西川

「三木市「別所長治像」」への1件の返信

粂さんはすでにご存知の情報かも知れませんが、ちょっと調べてみました。
久米族は隼人族、安曇族とともに、海洋民族が流れて九州に居付いた豪族ではないかと言われています。クメ、クマ、クミこれらも久米族を言ったものです。熊襲も熊本も久留米も久米族かも知れません。古事記では、神武東征に従軍した武将で大久米命という人物が書かれています。神武天皇が大和族の娘を娶る際、この人が使者として大和に赴きます。この時、大久米命は目の周りに隈取りのような入墨をしていたので、大和の娘は気持ち悪がったと記述されています。海洋民族は、漁の時に巨大魚に襲われないための魔除けとして入墨をする風習がありますが、大和族にはそんな風習はないので奇異に映ったのだと思います。これも久米族が海洋民族由来である証左と言われています。
さて、古事記にでてくる人名は漢字の意味よりむしろ音読みに意味がある場合が多いです。クメという音について南方島嶼部のオーストロネシア語族に類似音がないか調べました。オーストロネシア語族は、台湾の高砂族の旧言語やフィリピンのタガログ語などがそれにあたり、古くはフェニキア語とも繋がっています。日本語の中にも影響を受けた言葉が多くあります。例えば花。タガログ語ではパナと言うらしいです。Phana。インドの港町マドラスはフェニキア語で、フィリピンにはマドゥーラという町があります。そして福岡には松浦という港町があって古くは「まつら」と読んでました。魏志倭人伝にでてくる末羅国ですね。魏志倭人伝では、倭人は入墨をしているとの記述があります。
ここまで書いて期待を持たせてしまったのですが、残念ながらネット検索程度では、クメに似た発音の記述にはたどりつけませんでした。ちゃんと調べればアンコールワットのクメール王朝との接点が見つかるのではと思います。
久米部は大和朝廷の部民制度、つまり部(べ)の民の一つで軍事に関する任務を与えられた部族のようです。古事記に、久米歌という歌が出てくるのですが、食べ物に関する歌詞ばかりなので、久米部は、補給部隊みたいな役割だったのではないでしょうか。
ちなみに服部は衣服生産を任された部の民ですが、なんでハットリと読むのかわからなかったのですが、ハタオリがなまってるんですね。
弥生時代の土器についていた米粒のDNA鑑定したら、福建省辺りのものと一致したそうで、朝鮮半島伝来ではなかったことがわかりました。ひょっとしたら久米族が持って来たのかも知れません。クメとコメ、妙に似ていませんか?

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