NHKTVで「イタセンネット」を知りました。正式名称は『淀川水系イタセンパラ保全市民ネットワーク』(http://www.itasenpara.net/)というそうです。
イタセンパラという絶滅危惧種の魚は、私が十代の姫路市郊外の村の中の細い溝にも住んでいました。それが淀川で絶滅危惧種だというのです。
もちろん姫路市郊外のイタセンパラは、高度経済成長期に絶滅しました。代わりに、都市化による豊かで便利な居住環境になったようです(?)そこで、イタセンネットの活動報告とか関係者のブログを読むうちに、播磨歴史ネットの会にも、何か通ずるものがあるような気がしました。
ご存知のように亀山雲平の「顛衣余禄」は絶滅種でした。ひょんなことから関係者の多大な努力により見事蘇ったわけですが、今後の扱い方その他が、イタセンパラにも通ずるような気がします。
さて、淀川水系とくれば、日本の河川の中ではたいしたものではありません。しかし、歴史的に見た場合、大阪湾を含み日本一の大河と言える気がします。奈良盆地から大和川、木津川、琵琶湖から宇治川、京都市内の鴨川、桂川が淀川水系へ流れこみ、大阪湾へつながっていて、古代からの歴史を見続けてきた大河だと思います。例えば戊辰戦争の初戦に勝利した鳥羽伏見の戦いは、淀川水系を背景に行われました。
と、いうわけで、播磨の姫路藩の歴史を考えながら、時の政権とも関わりのあったことも踏まえ、「イタセンネット」から学ぶことがあるような気がします。
西川
「絶滅危惧種復活活動と歴史ネットの会」への3件の返信
淀川から伏見まで「顛衣余録」の記録を見ると、夕方に大阪天満橋を出て、翌日の暁に京都伏見に着くという利用の仕方をしています。参考まで。
藤原
大阪から水桶に魚を入れて淀川を遡って、京都まで唯一生きている魚は鱧だけだったんですね。京料理と言えば鱧と言いますが、実は新鮮な魚は鱧しか食べられなかったんです。
因みに、江戸湾に比べて太平洋までわずかに遠い大阪では生のカツオが食べられなかった。江戸では「女房質に入れても‥」などと初ガツオの旨さが言われますが、それを聞いて悔しい大阪人は「大阪にはマナガツオがある」と言い返したそうです。瀬戸内海産のマナガツオは、カツオの仲間ではありません。こちらも鮮度劣化が早く、また江戸湾では捕れません。マナガツオの由来はマネガツオと言われてます。大阪人の気位の高さを感じます。
後期高齢者となりにけるわが身にとって、淀川と言えば森の石松の「すし食いねえ」が思い浮かぶくらい。それと「野崎参りは屋形船で参ろう」の野崎観音。現在では想像できませんが、門前近くまで大阪市内から船で行けた時代があったそうで。深野池(ふこのいけ)というのが、淀川水系につながっていて、野崎観音の門前まであったそうです。