第2回公開講座「第一次世界大戦と俘虜収容所」に参加して、ほぼ10年ぶりに本徳寺の捕虜遺物と再開した。
以前はよく考えもせずに見過ごしていたが、講座に参加して、改めて「これは単に故郷をしのんで作られたものではない」と確信する。
互層の地層構造が浸食された岩山に作りこまれた古城塞。これをミニチュアで詳細に再現する技術は並大抵のものではない。実在の古城塞が実在していて、なおかつ作者にはそれを再現する技術を兵役前から備えていたと推測される。
ひょっとして探せばどこかにこの古城塞が実在しているのではないだろうか。
城塞模型の主な特徴点とそこからうかがえる所感は以下のとおりである。
- 高さ1.3mの円錐形で裾野は2m四方の御影石で囲われている。ただし御影石は後年のものとみられる。
- 上部は互層の地層構造をもつ紡錘形の岩塊が林立する岩山で、上部に石積み構造の円形城塞が作られている。
- 石積み構造には乱積み部と布積み部が明確に作り分けられている。想像の城であるならこのようなこだわりは不要と思われる。
- 城塞の縁には所々鉄線がむき出しており、上部に何か構造物が置かれていた形跡がある。西欧の古城には神像などが置かれているものが少なくない。
- 模型前面の城塞下部には岩塊に囲まれた開口部があり滝の吹き出し口となっている。しかし現実地形では、岩山上層部のこの位置に滝ができることはあり得ない。
- 模型前面は、スフィンクスの前足のように両側が張り出しており、その間が二段の池構造となっている。
- 模型背面には取り外し式の蓋があり、中には2リットル程度の甕(かめ)が置かれている。ここに水を溜めて正面開口部から流下させたとみられる。
- 取り外し蓋の横に銘板があり、「1915 G.s.m.I.D W.N」と刻印。現在は棄損していて判読できないが、棄損前の写真がある。1915は制作年、W.Nは制作者のイニシャルと思われる。そうなれば中段のG.s.m.I.Dは所属部隊名を表しているのではないかと考えられるが、未だ解明されていない。
- 模型正面左中腹に石造りのアーチ橋があり、登山道らしき道が模型全体をらせん状にめぐっている。この点も作者の正確な再現姿勢がうかがわれる。石のサイズから城郭全体のスケールを算出できる可能性がある。
- 景福寺から移設した際に分解再組立てをしたらしく、地層構造が縦になっていたりと、いくつか組立間違いがある。
既知の情報は以下のとおりである。
- 1914年11月から1915年9月までの10か月間、本徳寺、景福寺、妙行寺に俘虜収容所がおかれたこと
- 収容者の名簿が現存していること
- 神戸又新日報1915年9月9日記事にて「景福寺収容中のワルタピ―がコンクリートと鉄線で作り上げたライン河畔の古城塞は(中略)景福寺に残していくそうだ」
- ドイツ人研究家ディルク・ファン・デア・ラーン氏提供のイエキッシュ氏の記録にて「自ら設置した噴水の階段状の滝の下には、金魚が泳いでいた」
- 藤原代表の研究成果により、名簿から作成者はワルターネビガー(Walter Newiger)海軍上等兵(国民軍)と断定。本籍地は西プロイセン、ローゼンベルグ。
「古城の実在モデルを求めて」への1件の返信
姫路に在った第一次世界大戦の捕虜収容所の問題について、初めて発展的な内容の論稿に出会いました。古城塞の実在場所について発見できることを楽しみにしながら拝読します。