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古城の実在モデルを求めて2

 古城城塞の実在モデルを探すには、これら既知情報から推論を建てて作業を進めていく必要がある。多くの推論が構築されうるが、それらの内、比較的確からしいものを抽出して考察を進める。

1.城塞模型は、郷愁や慰安ではなく、明確な目的をもって作られた
 当時の軍当局の捕虜に対する取り扱い方針は、ハーグ条約に則った人道主義と、西欧技術の吸収である。姫路の収容所は1915年9月に閉鎖されるが、3年後の1918年12月に青野原で俘虜製作品展覧会が開催されており、絵画や工芸品が展示されている。城塞模型も当初から作品展示を目的として作られたものではないか。
 「金魚が泳いでいた」という記録から1915年夏には完成していたことが窺える。構想期間や資材調達期間を考えると、長くても半年程度で完成していたことになる。模型の精緻さを考えると異常な制作速度と言え、制作者は他の作業を免除され、連日作業に集中していたと考えられる。
 また「コンクリートと鉄線で作り上げた」との記事であるが、布引ダムは日本最古の重力式コンクリートダムで1900年完成であり、その15年後とはいえ、当時はセメントも針金も市中では入手困難な材料であったと考えられる。であるならば軍がわざわざ調達して与えたことになる。これらのことも軍当局の奨励のもとに進められた証左といえるのではないか。

2.製作者は兵役前から模型製作の技術を持っていた
 前述のとおり軍当局の協力を取り付けるには、制作前にラフスケッチか何かを示して、自分はこのような技術を持っていると説明しなければなしえない。互層の地層を持つ岩肌を表現するのにモルタルを薄くしたものを何層も重ねる技法などは今日明日に思いつくものではなく、もともとその様な技法があり製作者が技術を会得していたと考えるのが自然である。製作者は、城塞模型を製作する庭園技士みたいな職業ではなかったか。兵役前に何度も多くの城塞をスケッチしてきており、その記憶をベースに、景福寺での城塞模型製作を進めたのではなかろうか。
 そして、材料に、入手しやすい漆喰ではなく、入手困難なセメントを指定したのも、色合いも含めて岩肌の質感を再現するためではなかったか。

.神戸又新日報記事のワルタピ―の「ピー」は複数識別の愛称ではないか
 姫路収容所にファーストネームがワルターの人は4人いた。既存の収容者名簿は日本人名と同様に姓、名の順に記載している。当初、彼らを識別するために出身地をつけて「ワルタベー」とか「ワルタハ―」とかと呼んで、ネビガーはプロイセン出身なので「ワルタぺ―」ではと考えたが、もう一人プロイセン出身者がいる。この推論はさらに探求が必要と考える。

Busch,Walter:海軍兵站部・2等歩兵。バルメン出身。(2143:姫路→青野原)
Newiger,Walter:国民軍・上等兵。ローゼンベルク出身。(2340:姫路→青野原)
Richter,Walter:国民軍・上等歩兵。ハンブルク出身。(2371:姫路→青野原)
Schrader,Walter:国民軍・卒。プロイセンのカルテンキルヒェン出身。(2395:姫路→青野原)

Walter.Newiger

 余談ではあるが、藤原代表から「ネビガーワルターの写真が残っている」と聞いて、小野市好古館へ向かった。残念ながら青野原俘虜収容所に関する常設展示はなく、職員に尋ねると企画展開催時の資料を見せてくれた。資料にネビガーの写真はなかったが、書棚に大津留厚先生の「捕虜として姫路・青野原を生きる」があったので開いてみると、そこに写真の掲載があったので、転載させていただく。

<次稿へ続く>

「古城の実在モデルを求めて2」への1件の返信

2024,2,4日、改めて「実在モデル2」を読みました。1918年の捕虜製作品展覧会の開催やワルターが技術習得者であったとする推論、またワルタピーのピーの意味など考えさせられる指摘があります。何より西田さんの博識に驚いています。

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