15.忠顕の初帰城(安政2 年6 月(1855))

安政2年初帰国

 年が明けて安政2 年(1855)は忠顕にとって参勤交代で初めての帰国の年となります。3 月28 日、大目付からお触れがあり、国元に随行する一統が大広間に集められました。
 そして、大目付森時右衛門・元締め箕浦軍平の立合にて高須隼人から「何れも当夏御帰城の節、お供仰せ付けられ候」と下命がありました。敬佐にとって5 年ぶりの帰国となります。出発を前にして敬佐は、「顛衣余録」第1 巻に次の序文を記しました。
 序  (朱印)
 余辛亥(しんがい)春を以て出郷、茗黌(めいこう)に於いて笈(おい)を卸し、癸丑(きちゅう)冬吾邸伴読(はんどく)と為(な)る、以て今茲(ここ)乙卯(いつぼう)に至る、客跡凡(およそ)五稔矣(かな)、苦楽備嘗、其れ癸丑已後に至る、則ち忝(かたじけ)なくも擎跽曲拳(けいききょくけん)の労、無く能わず、而して不時命により召され、衣裳の転倒を免れず、其の間吉凶諸礼、日用瑣事に及び、以て□兇者に備え録すべし、則ち退直余暇これを記す、因って諸詩語、を取り名づけて曰く顛衣余録と、而して其の在癸丑已然は前記と為し、癸丑已後を正記と為す
安政二年乙卯王月十有二日 節宇学人亀山美和序并書(朱印)

(意訳)
 余(私)辛亥(しんがい)(嘉永4 年)春に国元を出て、昌平校に入門し癸丑(きちゅう)(嘉永6年)冬、吾邸伴読(はんどく)となった。今茲(ここ)、乙卯(いつぼう)(安政2 年)に至り、客跡凡(およそ)五年となる。苦楽を体験すること其れ癸丑年に及ぶ、忝(かたじけ)なくも学問修業の労を解かれ、思いがけなく召命によって学問相手を拝
命し、衣裳の裏表を取り違えて着るごとき繁忙を経験した。
 その間、吉凶・諸礼、日用瑣事に及ぶまで兇者に備え記録を残し、日々の勤めを終えた余暇にこれを記すことに勤めた。これによって諸々の詩語を取って、顛衣余録と名付けた。そして、癸丑より以然は「前記」となし、癸丑以後を「正記」と命名する。

 上記の様に敬佐は、昌平校書生寮へ入門してからの体験を感慨深く振り返り、顛衣余録作成の意図と本書の構成をまとめている。

江戸出立

 出発日は、小雨が降っていました。「ご発駕六時過ぎ、ご出門、此の日少々雨天、手傘にて龍ノ口過、八代洲( ママ)河岸送り迄歩行、それより乗輿(じょうよ)にて押供(おさえとも)仕り候、川崎駅にて御昼、当夜戸塚の御泊り」と、出発の様子を記します。そして、敬佐には、特別に「道中お次番、泊番」が命じられました。こうして5 月18日江戸を出立し、まず戸塚に宿泊しました。姫路までの行程は、次の様になっています。
19 日、小田原駅泊り   20 日、沼津泊り
21 日、吉原泊り     22 日、油井駅泊り
23 日、藤枝泊り     24 日、見附泊り
25 日、本坂廻り気賀泊り 26 日、赤坂泊り
27 日、岡崎泊り、龍海院へ参詣 28 日、宮駅泊り
29 日、佐谷廻り桑名泊り晦日、関泊り
朔日、石部泊り2日、伏見泊り
3日、大坂泊り4日、兵庫泊り
5日、加古川泊り
6日、九ッ時、国府寺御立寄りにて中御門より入城、高須・内藤の横町中頃にて下乗(げじょう)、御本城お礼など相済まして東御屋敷へ出席し一統へお辞宜これ有り。(① 6/6)

 以上が参勤交代の帰城の様子です。19 日をかけた少しゆっくりした行程ですが、20 歳になったばかりの若い藩主を迎えて国元では、歓迎のムードが充満していたことと想像します。15 日から国元藩士との初御目見の行事が始まります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です