14.江戸在番の生活

江戸城に登城

 嘉永7年4月28日、忠顕は溜詰めを拝命し、5月1日、お祝いの餅つきが酒井家の上屋敷で行われました。
「五月朔日、(中略)、午後此の度のお祝いとしてお餅搗(もちつき)これ あり、お側向き一統餅つき仕り候、(中略)喜光院様より一統 へお酒お魚料ならびにお手拭一筋下し置かれる」(顛衣余録①5/1)
 この時、亀山敬佐(けいすけ)も「お側向き一統」としてこの行事に参加していた事と思われます。敬佐が藩主忠顕に随行して初めて江戸城に登城した時の記録を紹介しておきます。5月27日の記録です。
「殿様、御登城の節御小姓供番仰せ付けられ、大手下馬よりお 供にて相入り候て、百人番所にてお供落ち候」(顛衣余録①5/27)
 大手下馬というのは、酒井家の上屋敷の前です。小姓供番として藩主に随行したようです。江戸城は、大手門を入ると三つの番所がありました。同心番所・百人番所・大番所がそれです。敬佐は、大手門から同心番所をへて百人番所まで随行したようです。藩主は、ここで供落ちとして家臣と別れ一人で江戸城内に登城することになっていました。

江戸城同心番所
江戸城百人番所

 11月6日の記録を見ると、「鶴献上に付き御城中拝見」とあり、藩士3人が同道して江戸城内を見学しています。
「大廊下、上の間を初め下の間、処々拝見、此の節、小笠原助之進・吉沢九十郎同道、留守居神戸四方之助参る」
 いずれも姫路藩の重臣ですが、江戸城内部の見学は珍しい体験となったようです。

同遊4人の消息

 閏7月29日の記録には「大三川志(だいみかわし)」全部54刷活字版を購入と記しています。代銀は、13両2分で亀山先生と名宛てが記されていました。他の記録では、8月17日に乗馬の練習責馬(せめうま)をしています。雲路(くもじ)と名付けられた馬に乗り、馬場中央へ飛び出したところ馬場藤五郎とぶつかり落馬して左のすねを打ち気絶したとあります。骨接ぎ医者の診療を受けて9月8日まで療養して居るところから重傷であったようです。
9月11日の記録には、同遊四人として昌平坂学問所所書生寮に寄宿した四人の消息を記録しています。本多蔵次郎が、この日学問所寄宿御免となって、亀山敬佐の長屋へ当分の間、同居を命じられています。田嶋寿太郎は、嘉永6年(1853)8月18日に学問所寄宿御免となりいち早く国元に引き取りましたが、本多と羽田は安政2年(1855)2月24日に聖堂を引き払い、晦日に上屋敷を出立し国元に帰っています。
11月29日、敬佐は、家老高須隼人に相談し、藩主から国元学問所へ詩文御題を下されるよう願い出ています。藩主から高須へ次の詩題・文題が示され、隼人はこれを国元の好古堂へ送っています。詩題は「早春聞鶯」で、文題は、「海防何以為急論」と「 題簫何(しようか)追韓信(かんしん)図」です。簫可・韓信は、張良と供に前漢時代の3傑と言われた人物です。
 12月28日は、日本橋の火事を記録しています。「鎌倉河岸一円延焼、本町通りへも横へ抜け、御中屋敷風筋に相成り候、当番の者は皆々相引き候様仰出され、御上屋鋪あぶなく相成り(中略)終に御出馬に相成り、久々御小姓供番仰付られ相勤め候、御退出六時過也」と大火の顛末を記しています。

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