16.家臣との初御目見

初御目見

 初めての国入りを果たした7代目の新藩主酒井忠顕は、6月15日から家臣団との初御目見(おめみえ)を始めました。現在の姫路城は、建物が本丸・2の丸・西の丸にしか残っていませんが、当時のお城は、右図のように桜門橋から桐2の門を入ると、3の丸広場に向屋敷(むこうやしき)があり、西の高台には御本城(ごほんじよう)(御殿)がありました。この御本城が機能面から言って心臓部と言うべき建物です。明治7年(1874)迄は図のような完全な形で残っていましたが、8年から取り壊されたため現存する形になりました。忠顕と家臣団との初御目見の舞台は、御本城の鶴の間です。謁見の場面を引用しておきます。

姫路城鳥瞰復元図 作図:香川元太郎

 6月15日  (「顛衣余録」第1巻①6/15より引用)
 殿様、御本城へ入らせられ、お側向き一統平服改めにて出席の事、今日、 ご家中惣御目見(そうおめみえ)これ有り候、(中略)、惣御目見相始め候節は、(中略)大 目付、惣御目見の者揃い、宜敷(よろしく) 御座候旨申上げ、殿様お立に相成り鶴 の間へ入らせらる。(中略)お側の者お付き申し、鶴の間西のお縁側に相 並び居り候、(中略)、今日は給人格まで御目見これ有り候
 文中に「ご家中惣御目見これ有り候」と記すように、扶持米を拝領する給人格以上の藩士が勢揃いして新藩主に拝謁しています。家老・年寄等の重臣の名が挙がっていないのは、6日の帰城の時に挨拶を済ませているからです。
 18日の記録を見ると、5ッ時(8時)には、同じく「御中小姓・御供番ならびに給人惣領(嫡男)の者」まで御目見がありました。この日は、さらに身分の低い者の御目見があったようで、その方法は「鶴の間東の口障子三尺あき、大船頭まで独礼(どくれい)相済み」と障子を3尺明けての「独礼」という閲見がありました。さらに「お通り掛り御目見の者」という処遇の者が居て、彼らは鶴の間唐紙御小納戸を明け拝謁をしています。その後、お立ちになって居間へ戻り「ご拝領の御馬小林林蔵相乗り、ご覧これ有り」と記しています。忠顕は、将軍家定から拝領した馬を家臣の小林林蔵が乗馬する姿を居間で寛ぎながら見物しています。

日常の始まり

 6月18日になると、帰城後の主な行事はなくなったようで日常の行事が記録されています。主な出来事を拾い出してみます。
○18日、今晩より十八史略お会読相始め、来月朔日より月次(つきなみ)御礼請けさせられ候
○28日、五半時御供揃い、殿様御本城へ入らせられ御拝領の御旗御覧、夫より在中の者御目見、西の丸へ御出、御鉄砲御武器の御蔵御覧、
 18日に敬佐は、藩主の学問相手として「十八史略」の会読を始めています。また、7 月朔日(1日)から月次(つきなみ)御礼を受けることが記されています。月次御礼とは毎月の朔日(さくじつ)(1日)と15日に家臣や領民からお礼の挨拶を受ける日のことです。6月28日には5ッ半時お揃いと、お供の者が揃い殿様に随行しています。この日、在中の者(村方)の者の御目見得がありました。その後、西の丸にて鉄砲武器庫の蔵を御覧になったと記しています。

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