19.「顛衣余録」第1・2・3 巻の解説

姫路藩政の動向

 「顛衣余録(てんいよろく)」第1巻の紹介を終えるに当たって「余録」に記されていない当時の姫路藩政の動きを補足しておきます。第1 巻に記録されている期間は、嘉永4年(1851)2月~安政2年(1855)11 月迄です。
 この間の大きな出来事としては、2度に亘るペリ-来航があり、次に7代藩主となった酒井忠顕(ただてる)の初入部(にゅうぶ)(初帰国)があります。忠顕は、安政2年6月に帰国し3年の8 月まで姫路に滞在します。約1年3ヶ月の長きに亘って姫路国元で生活しました。これは異例のことです。1年を超えたのは、江戸大地震によって姫路藩の上屋敷が倒壊し、再建中であったという事情によるものです。
 忠顕の長い帰国中に、国元では、秋元正一郎の建議によって速鳥丸の建造に着手するという出来事がありました。また、江戸では藩士菅野狷介( 潔)(けんすけ(きよし))が3 年4 月から北海道の探索に出発して、翌年の7 月に帰ってきています。北海道は、明治時代になって屯田兵によって開墾されますが、この頃からニュー・フロンテイアの大地として注目されていました。これ等の出来事は、ペリ-来航が姫路藩に与えた新時代の影響と言えます。

姫路滞在記録

 「顛衣余録」第2 巻は、忠顕の姫路滞在記録となっています。藩主在城中の生活が詳しく記録されています。
 亀山敬佐の好古堂教授拝命と講堂での268 名の藩士相手の講義、林田藩士河野俊蔵(鉄兜)が一之関藩士森文之助を伴い姫路を訪問した記録、そして忠顕の室津や髙砂の巡見など、を記しています。
 第3 巻は、忠顕が江戸に帰る江戸参府道中記録となっています。亀山敬佐は、参府道中の「お次番」と「お使者」の兼務を命じられています。
 また、道中の「御定書」や「口上書」を採録しており、道中の通行・宿泊規則など参勤交代に関する研究には重要な記録となっています。忠顕は、安政3 年(1856)の8月15 日に姫路を出発し、9 月4 日、新築落成したばかりの姫路藩上屋敷に帰りました。

凡例

 ここで「顛衣余録」1・2・3巻の記述から引用したトピックスついて出典箇所の解説をしておきます。本文中で「① 2/18」と掲載箇所を示しています。①は、第1 巻を意味し、2/18 は、2 月18日を意味します。索引として利用して下さい。(紙面の都合により元号と年度を省略している箇所があります)
 次に重複しますが、1巻~3巻の記録から各巻の解説と主なトピックスを紹介しておきます。

第1巻の要旨 嘉永4年2月18 日~安政2年11 月15 日

 第1 巻は、嘉永4年2月18 日から安政2年11 月の記録です。
 亀山敬佐(美和)(けいすけ(よしかず))は、昌平坂学問所書生寮へ入寮し、佐藤一斎門下生となりました。そして、6年12 月1日、7代藩主酒井忠顕(ただてる)の近習席学問相手を拝命します。
 第1巻は、この日を境に「前記と「正記」に分かれています。この巻では、ペリー来航はじめ藩主の初めての帰城、家臣や領民との初お目見など定例の儀式を済ませています。また、世相の記録としては、昌平校時代の学友会津藩士南摩三郎の訪問や安政の江戸大地震、総社の祭礼などを記録しています。この巻の主なトピックを挙げると次のとおりです。

  • ① 2/18 亀山敬佐、江戸昌平坂学問所書生寮に入寮し、佐藤一斎の門下生となる。
  • ① 8/28 第12 代将軍家慶の「住居御通抜け」がある。
  • ① 2/26 学友南摩三郎(綱紀)と共に昌平黌の「詩文掛」を拝命
  • ① 6/9 ペリー来航と姫路藩兵の芝・高輪方面への出動
  • ① 9/8 第6代藩主酒井忠宝の逝去と第7代酒井忠顕の相続
    「正記」:嘉永6 年12 月~
  • ① 12/1 藩主忠顕の近習席学問相手を拝命
  • ① 1/27 ペリー2度目の来航につき姫路藩兵は鉄砲州・佃島へ出動
  • ① 4/28忠顕溜詰めを拝命,・5/18 忠顕初めての参勤交代の帰城、敬佐は道中「御次番」「泊番」を兼務
  • ① 6/6姫路着(6/15、御本城にて家中惣御目見えあり)
  • ① 10/7江戸安政の大地震、11/15 総社祭礼を見物
第2巻の要旨 安政2年11月1日~3年8月11日

 第2巻は、安政2年11 月から3年8月の記録です。5年ぶりに帰国した亀山敬佐は、6月、好古堂教授を拝命し本堂にて藩士268 名を相手に講義を行います。昨年の大地震で江戸上屋敷が倒壊したため、忠顕の国元における滞在期間が延長となったために藩主在城中の生活が詳しく記されています。
 敬佐の残した大目付日録に記載はないが、この間、姫路では、2 年4月と11 月にアメリカから帰った漂流民の話を聞き、秋元正一郎による速鳥丸建造の建議がありました。速鳥丸建造には、帰城していた藩主忠顕の意向が強く反映していることが解りました。江戸では、3 年4 月に菅野狷介が北海道の探索に出発するなど、ペリー来航の影響を受けた姫路藩士の行動が記録されています。この巻の主な内容は次のとおりです。

  • ② 1/1藩主忠顕在城中の「年始行事」を記す
  • ② 2/24人別書きを提出
  • ② 2/25藩主の領内巡見(高砂)
  • ② 3/13室津巡見
  • ② 2/27晴光院巣鴨仮御殿へ引き移る
  • ② 3/14好古堂にて武格を講習する者の名前
  • ② 5/13一之関藩家臣森文之助、林田藩士河野俊蔵(鉄兜)と来訪。
  • ② 6/1亀山敬佐、好古堂教授拝命、本堂で講義(268 名の藩士聴講)
第3巻の要旨安政3年6月15日~9月8日

 第3巻は、3年6月15 日から9 月8 日の記録で、藩主忠顕の江戸参府道中記録となっています。敬佐は、道中御次番と使者を兼務。このため道中の「御定書」[宿割り」・「諸規則」、使者の「口上書」「心覚」等を詳しく記録しています。この巻のあらましは、次のとおりです。

  • ③ 6/15敬佐は、参府道中の御次番と御使者を兼務,参府道中「御定書」「口上書」「覚」を写す
  • ③ 8/15姫路発駕、9/3 江戸到着
  • ③ 9/4忠顕、新築完成した上屋敷に入る

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