18.南摩三郎の来訪と江戸大地震

緝光院3回忌

 8月に入ると10日に緝光院(しゅうこういん)の3回忌が前橋龍海院において行われるために「勝手次第即是堂(そくぜどう)へ参詣致さるべく候」と先代忠宝の法要が行われた。即是堂とは、現在の総社付近に在った建物で、ここに龍海院の僧が来て酒井家の祖先の藩主の位牌を祀っていました。勝手次第とは、自由にという意味で藩士の参詣を許しています。3日の日付けで大目付から通達されていますが、これに先立って9日には、お側向き一統お坊主まで藩主の居宅である東御屋敷で「御茶飯」を振る舞われています。御膳は、「御茶飯・御汁・御したし」が出され、忠顕より「ゆるゆるとの御意これ有り」と声がかけられたことを記しています。15日には、「御本城へ入らせられ、諸お礼請(うけ)なされ、ご近習席平服改にて出席」とあり、月次お礼請けがあったことを記録しています。
 9月になると、7日に実兄の剛毅の13回忌の法事が下の通り行われています。

一菜料 四匁  一備餅  壱重
一白米 二升  一塔婆 壱本
右景福寺へ遣す 兄様十三回忌也
塩山伯母様 金井おみか様 福田伯父様 以上三人茶漬出す
盛物の餅も不遣  同居の柴田伯母様 同おつや様

南摩三郎の訪問

 9月8日、会津藩士で昌平校で敬佐の学友であった南摩三郎が姫路を訪問しています。福中町にあった旅館に宿を取り、敬佐へ手紙を差し出しています。早速敬佐が尋ねて、9日には中の門の外にあった高瀬屋へ移り、藩主から賄料が下さたと記しています。敬佐は、三郎の滞在中に仁寿山校と好古堂を案内しています。三郎は、9月晦日に姫路を出発しますが、約20日余り滞在しています。逗留中に家老の高須隼人は「梅園紀文」の詩作を三郎に添削してもらったようで、右お礼とし絹織物の亀綾(かめあや)1反・金五百疋・唐草模様の織物等を贈っています。また、藩主忠顕は学校付きとの名目で銀2枚を下賜したと記しています。これは、高瀬屋の滞在費銀切手約7百匁や出入り商人灰屋庄七への支払い分である切手50匁等が含まれているということです。藩主の学問相手を勤める敬佐の無二の友に対し、破格の歓迎ぶりを記しています。

江戸大地震

 10月の記録を見ると、「当二日、江戸表にて亥ノ刻大地震、お上屋鋪お添地残らずご類焼、お上屋鋪ご門ばかり相残り候」と、安政の江戸大地震を記録しています。酒井家の上屋敷は、残らず延焼し門だけが残ったと記しています。「晴光院様・喜光院様・お姫君様方お子様在せられず候」と、晴光院はじめ姫君は、幸いにも不在であったため難を逃れたとの便りがありました。

総社祭礼

 11月15日には、惣社の祭礼がありました。「七半時、お供揃にて御出これ有り」とあります。朝の5時頃でしょうか、「御近習席一統、服紗・小袖・麻上下着用、御桟敷へ出席」とあり、正装をして参列しています。そして、「殿様お能三番叟(さんばそう)、相済み次第お帰りに相成る」と時節柄を配慮して切り上げています。午後になって敬佐らは、細井市大夫方へ集い「一酔談話」をして寛いでいます。角田心蔵・井上理左衛門・坪内寸次郎・私」の4人で岡田(半)九郎は不快中ゆえ参加していません。この6名は、藩主側近で近習席の者です。いずれも一酔或いは囲碁等を楽しみ晩景に及び帰散したと記しています。同僚の一時の憩いの場面です。

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