西洋型帆船「速鳥丸」
安政2 年(1855)6 月6 日、7 代藩主酒井忠顕(ただてる)は、参勤交代で初めて帰国しました。忠顕の国元滞在中の特筆すべき出来事として西洋型帆船「速鳥丸(はやとりまる)」の建造を挙げることが出来ます。これまで秋元正一郎安民の建議がきっかけとなって速鳥丸が建造されたことは、よく知られていましたが、ここに新藩主忠顕の強い関わりのあったことが、最近の研究で解ってきました。
姫路藩が、いち早く他藩に先駆けて最新のスクーナー型帆船を建造するきっかけとなったのは、加古郡本庄村(現播磨町)にアメリカ返りの漂流民4 人、源治郎(淺右衛門)・清兵衛(清太郎)・甚八・助兵衛(喜代蔵)がいたからでした。鎖国で国を閉ざしていた日本のしかも姫路藩内になぜアメリカ帰りの漂流民がいたのか、この疑問から解説を始めます。
漂流民の帰国
嘉永3 年(1850)10 月、荷船栄力丸は、浦賀を出帆し大阪・兵庫へ荷揚げのつもりで熊野灘沖に差しかかったところ暴風雨に遭い、八丈島南方へ漂流し太平洋を53 日間漂った後、幸運にもアメリカ商船に救助されました。栄力丸の乗組員17 人は、この船に救われ、嘉永4 年2 月、サンフランシスコの港に上陸しました。約1 年半余り滞在しましたが、日本に送り返されることになり、アメリカを離れます。この時、アメリカの新聞で17 名の漂流民がニュースとして掲載されました(写真上)。
嘉永5 年12 月、一行はサンフランシスコを出帆し、ハワイを経て翌6年の4 月、中国香港に入港しています。ここでサスケハナ号に乗り換えました。これは、ペリーの日本来航に合わせ送り返される予定であったことが解っています。(播磨町『怒濤を越えた男たち』)。
この頃、上海には音吉という日本人が居住していて一行全員の滞在と帰国に骨を折っていますが、漂流民はこの時、音吉に「何卒(なにとぞ)日本通(かよい)の唐船にて送り貰い度(たし)」と願い出ています。アメリカ船に乗せられ日本へ返されても、帰ってからのことが心配だったからです。サスケハナ号に残されたのは、芸州藩出身の仙太郎一人だけでした。これまでも異国船に取り残されたのは、年少の者が多いと記されており、幼年の彦太郎(ジョセフ・ヒコ)が一行から別れ再びアメリカへ戻った背景にはこうした複雑な事情があったと考えられます。
歓迎されなかった帰郷
安政元年(1854)7 月10 日、漂流民一行は、日本通いの唐船に乗り込み、27 日長崎に到着しましたが、28日長崎役所へ連行され「漂流の次第ご吟味これあり」と揚り屋へ入牢を仰せ付けられたということです。鎖国という国禁を犯した罪人の扱いでした。11 月27 日、姫路藩出身の4 名は、酒井家に引き取られ、12 月18 日、5 年ぶりに姫路へ帰ってきましたが、歓迎されることなく、翌安政2 年(1855)の2 月まで中里昌右衛門の取り調べを受けました。秋元正一郎が、漂流民4 人と面会したのはこの頃のことです。帰国した清太郎宛に出した秋元のカタカナの書状が残っています。4 月20 日と11 月6 日の日付けが入っています。注目すべきは、この間の6 月6 日に新藩主酒井忠顕の帰国があったことです。速鳥丸建造に至る記録を追ってみます。