21.速鳥丸建造秘録(2)

4月の書状
秋元正一郎安民

 秋元から漂流民に宛てた2通の書状を精読すると、藩主と藩士・領民の興味深い関係が解ってきます。4 月の書状は、2 月に中里の取り調べが終わり、本庄村へ帰った4 人に送ったものです。内容は、「シカマ(飾磨)ニテワカレ候ママユエ」との書き出しから始めています。飾磨のシマニ(嶋屋の屋号)から2 朱が清太郎に送られたこと、また、「シカマニテ、カシタルカラカサハ何レヘトドケクダサレ候ヤ」など身辺の瑣事をはさんでいます。興味深いのは、清太郎の話を聞いたシマニさんは、大きな世界地図を購入したことです。安政2 年(1855)という時代にどのようにして世界地図を入手したか、わかりませんが、シマニさんは「ソノ図ノ内ニ、サンフランシシコーノ港コレアリ」と港を発見して、清太郎の話に間違いのないことを確かめ、大いに「アンシンイタシ候」と記しています。漂流民の話に関心を持つ御船手組の反応が解ります。(カタカナ表記は原文のまま)

11月の手紙

 2 通目の書状を見ると状況ががらりと変わります。若い三河国田原藩出身の新藩主忠顕(ただてる)が文面に登場します。田原藩は、江戸幕府では海防掛を勤めた藩で海岸線の防御には常々関心を払っていました。そして、田原藩もこの頃、順応丸という西洋型帆船の建造に取り組もうとしていたからです。
 この2通目の書状には、藩主忠顕の強い意志を窺うことが出来ます。地元に帰っても船員として船乗りが出来なくなった4 人の状況を秋元が「オナゲキ申シイデ」たところ、「フナノリガデキ秋元正一郎安民ヌト申スコトハ、(中略)、イヨイヨ、フビンニオボシメシナサレ候」と藩主の心情の動きを描き、「イズレソノウチニハ、ナントカオオセダシ(仰せ出し)モアルベクトゾンジ候」と、藩主の関わりに期待を持たせています。その後に、秋元は「マタヒトツ清太郎ラヘタズネクレト、ナイナイコノ方マデオンタツシノコトアリ」と藩主じきじきの指示を記し、
「アメリカニテノリオボエ候シコノ船ハ、ズイブンデキルモノカ」
「モシ四人ノモノガオボエテイテ、コシラヘテミヨウトオモウナラ、ナニホゾ金ノイルコトゾ、クワシクキキタダシテ、ゴンジョウイタセ」
と続けています。次いで
「トノサマハ、フネノコト、シキリニオココロニオカケナサルトアイミエ」
と忠顕の強い関心を記し、
「カヨウナアリガタイオホセジャニヨツテ、ナニトゾミギノシコノヲツクルヨウニ、イタシタク候」と帆船建造の意欲を記しています。藩主と漂流民との間に立って帆船建造に進む秋元の姿勢を見て取れます。

待遇の変化

 清太郎(本庄善治郎)は、この書状を受け取ったあと、直ぐに11 月13 日、姫路へ出頭します。その時、「2人扶持・銀3匁・矢倉格扱い」を拝命し、沖船頭勤めを命じられました。一方、秋元は、安政4年(1857)の1月に国学修業のため江戸在番を命じられ、9 月、茂木卯三郎と共に新船建造の「肝煎」(総監督官)を拝命しました。秋元の江戸勤務は、「格別の思召しである」と記録されています。これは、西洋型帆船建造に関わる調査・研究が主たる目的であったと推測します。姫路藩は、11月から室津において速鳥丸建造にあたりますが、この2 年間に漂流民と秋元の待遇はこのように大きく変化しました。

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