22.速鳥丸の建造(1)

江戸在番を拝命
秋元正一郎安民

 安政3年9月、江戸に帰った忠顕は、秋元正一郎に翌年の正月から江戸在番を命じました。記録を見ると、「藩主安民を江戸邸に召し幕府の国典家前田夏蔭(なつかげ)に謁せしむ」とあります。前田夏陰とは、水戸徳川斉昭の愛顧を受け、のち将軍となる慶喜の師として学問の指導に当たった人物です。幕府の勘定方役人を務め、小野藩の野口隆正と親交があったといいます。(『明治維新人名辞典』)。秋元は、一時期、野口の養子となっていましたから、こうした人脈の推薦があり幕府との接渉役も担当していたことと思われます。
 秋元の江戸在番については、あまり記録は残っていません。しかし、この年の9月に速鳥丸建造の肝煎り、11月には室津において速鳥丸建造を命じられ、着手します。そして、安政5年7月、速鳥丸が完成した時、幕府への報告の記録があるところから、秋元の江戸勤務は、西洋型帆船建造の研究のみならず幕府との接渉などが主たる目的であったと推測します(「異国形大艦御製造日記」植村左右平著)。

速鳥丸の建造

 『姫陽秘鑑』で速鳥丸建造の記録を見ると、次の日付が記されています。「安政4巳年9月晦日、此の度、異国船形の新船御製造に付き(中略)諸事肝煎(きもい)り仰せ付けられ候」と。続いて「安政5午(うま)年(1858)7月17日、速鳥丸出来に付き室津より飾万津へ相廻し、同所担保にて御役人一統見分これ有り」と。

速鳥丸と神護丸

これを見ると、姫路藩士秋元正一郎と茂木卯三郎は、4年9月に速鳥丸建造の総監督官を命じられ、11月に室津にて着手し、完成は5年の7月であったことが分かります。また、作事場所や建造チームのメンバーなど詳細な記録が残っています。

作事場「池の浜」

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