23.速鳥丸の建造(2)

速鳥丸の「御船おろし」

 年を越して安政5年(1858)正月15日の記録を見ると、水主植村左右平は早朝に湛保を出船し、昼7ッ半時室津池の浜に着き、秋元と山口(浅右衛門カ)に諸荷物を渡し、引き継いでいます。この頃から速鳥丸建造の具体的作事が始まったようです。
 6月に入ると、3日には「御船おろし」(進水式か)が話題に上がっています。16日には、姫路藩家老・年寄・奉行・大目付の重臣が御用船長慶丸・治涛丸に乗り組み、家嶋のお台場見分を終えてから70人余りの家臣を従え、室津へ見学に訪れています。そして、24日に無事「御船おろし」が終わっています。7月15日には、速鳥丸を室津から飾磨湛保へ廻し、17日、藩役人の正式な見分を受けて、家老・年寄・奉行・船奉行・大目付・諸役方が船に乗り入り、お祝いの式典が行われています。植村はじめ船修業の者や漂流民の浅右衛門等へもお酒が振る舞われています。御船拝見については、御家中以外の者は禁止と大目付より伝達がありましたが「珍しき船ゆえ、多人数処々より入り込み候」と、大勢が見学にやってきたことを記しています。

江戸への初出航

 速鳥丸は、その後、「御領中・東西灘中を乗り廻り」ますが、これは「稽古のためなり」と、航海術の訓練をしています。速鳥丸が、始めて任務に就くのは、9月15日のことです。「9月15日、お米千俵・産物木綿30反積み入れ」18名が乗り組みました。
御上乗:寺尾広右衛門殿、下御目付:木村儀蔵、
御船方修行遣わし申す9人、
漂(流)民:清太郎、 沖船頭:本庄伝次郎、
表役:浜本帰平、
親父役:山口浅右衛門・木村甚八弟、
御水主格:木村和三郎、
本庄村:栄太郎・竹蔵・炊一人   〆3人
惣〆18人乗り組み出帆致し候事、

 漂流民の清太郎(本庄善次郎)・浅右衛門(山口洋右衛門)・濱本帰平(喜代蔵)は、その後も速鳥丸・神護丸の船頭役として重用されています。
 その後の西洋型帆船 速鳥丸が完成した後、文久3年(1863)神護丸が完成しました。姫路藩は、幕末に2艘の西洋型帆船を所有していました。2艘の船は、江戸・大坂・姫路国元を往復し、特産物の木綿の輸送や人・物の往来に従事し活躍しました。慶応4年の戊辰戦争では、姫路藩から新政府へ謝罪出兵のため上納する嘆願書が出されましたが、許可されませんでした。しかし、明治4年11月の記録では「申(明治5年)5月、浜本帰平 速鳥丸御船 大阪大蔵省へ渡り申し候」となっており、新政府の御用船となったようです。
 神護丸は、文久三年(1863)に完成しました。速鳥丸と同じく戊辰戦争で新政府へ上納されるところを免れ、明治6年(1873)まで就航します。この年の2月7日の夜、遠州灘にて遭難し伊豆西南海岸の子浦港入口の蛇島に座礁して破船となりました。

「23.速鳥丸の建造(2)」への1件の返信

姫路藩は、船荷の保険引受をしていて、よく沈む和船に対して設定された保険料率で、少々の嵐でも沈まない西洋船で荷物を運ぶことで、保険料でがっぽり儲けたという話です。
因みに御座船は藩主が参勤交代の際に加古川を渡るための専用船で、「何回使うんじゃい!」と思われがちですが、他藩の参勤交代の際にレンタルしていたようです。西国の藩のほとんどが、播州の地を踏まないと江戸に行けないのでそれなりの稼働率はあったようです。御座船は現在、県庁北の相楽園の庭園に展示されています。
お金に関してかなりしたたかな藩であったようです。
「さぞ儲けたであろう!がっはっはー」

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