24.菅野狷介の北方探索(1)

「北游乗」フロンテイアの大地へ
夷地の探索
菅野狷介(白華)

 ペリー来航が姫路藩に与えた影響としてもう一人、蝦夷地(北海道)の探索に出かけた姫路藩士を取り上げておかねばなりません。菅野狷介(けんすけ)(潔(みさお)、白華)がその人です。
 江戸時代も後半に入って寛政年間になると、外国船が日本の沿岸に渡航する出来事が増えてきます。鎖国を国是としていた幕府にとって海岸線の防衛は、焦眉の課題となってきました。
 18世紀後半から19世紀(寛政~文化年間)にかけて蝦夷地の測量や探検を行った人物として伊能忠敬・近藤守重(重蔵)・間宮林蔵などが名を残しています。文化4年(1807)4月には、日露間で大きな戦闘がありました。現在の北方4島の内、択捉(えとろふ)島のナイホトにロシア兵が上陸し、島民に乱暴を働いています。このため南部・津軽・松前・秋田藩佐竹氏・庄内藩酒井家などが出兵し、両軍合わせて25000人が激しく戦った記録が残っています。日ロ間の最初の戦闘でした。『姫路藩の大庄屋日記』(P213)には、秋田藩佐竹氏の家臣戸田又大夫の武勇伝が記されています。遠く北海道の東部で起こった戦闘の模様が播磨の印南郡の大庄屋日記に残っています。江戸時代の情報伝達の仕組みを知る上で、興味深い記録です。この時、3代姫路藩主酒井忠道は、参勤交代で国元にいましたが、2ヶ月ばかりの滞在で急いで江戸に帰りました。これは、幕府からの召喚があったためです。
 伊能忠敬の蝦夷地測量に幕府の目付として参加したのが、間宮林蔵です。後に北海道の地図を完成させ、カラフトが離島であることを発見し、世界地図の上に間宮海峡の名を残す功績を上げました。国後島でロシア船に拿捕された淡路島出身の高田屋嘉兵衛が活躍するのもこの頃で、嘉兵衛の仲介によって日ロ間に和平が実現しました。

田原藩と蛮社の獄

 姫路藩との関わりで幕府の海防政策を見ると、藩主忠顕の出身である田原藩三宅家があります。愛知県渥美半島の中央部にある田原藩は、1万2000石の小さな藩ですが、太平洋に面しており、海岸の防衛には特に関心を払っていました。藩主の三宅康直は、姫路藩4代藩主酒井忠実の実子で、田原藩へは藩財政の救済のため持参金付きで姫路藩から養子に入った殿様でした。このため藩主に予定されていた三宅友信(とものぶ)を若隠居させることとなり、友信が隠居屋敷として使用していた江戸下屋敷が「蛮社の獄」の舞台となりました。
 天保8年(1839)のモリソン号事件に端を発した「蛮社の獄」は、江戸幕府が洋学研究グループ「尚歯会」に加えた言論弾圧事件です。田原藩江戸下屋敷が舞台となっていました。渡辺崋山・高野長英・小関三英などが連座します。この時、田原藩の家老を務めていたのが渡辺崋山です。

渡辺崋山像
三宅土佐守康直の墓

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