25.菅野狷介の北方探索(2)

「北游乗」フロンテイアの>実録「北友情」
実録「北友情」

 蛮社の獄が起こった天保10年(1839)には、忠顕(幼名屯(たむろ))はまだ4歳でした。ただ、側室の子であったためしばらくは、三宅友信(とものぶ)に養われていました(『田原町史』中巻P1201)。その後18歳に成長した忠顕(通称稲若(いなわか))は、姫路藩5代目藩主忠学(ただのり)の娘文子(あやこ)姫の婿養子として姫路藩に入り7代目を相続します。嘉永6年10月のことです。ペリー来航の4ヶ月後のことです。年若い藩主酒井忠顕は、溜詰めを拝命し幕政に参画します。この指南役に任命されたのが江戸藩邸の教授を務めていた菅野狷介です。嘉永4年(1851)2月、亀山雲平等4人の姫路藩士が、昌平校書生寮へ入門します。彼らを出迎えたのは、直前まで寮長を務めていた菅野狷介でした。安政年間には、7代藩主忠顕の下で菅野・亀山・秋元等の姫路藩きっての秀才が側近を固めていたことが解ります。

フロンテイアの大地へ

 日米和親条約では、函館・新潟の港が開かれ下田に領事を置くことが決定しました。蝦夷地は、フロンテイアの大地として注目される新天地となりました。菅野狷介は、海防政策の必要性を感じ、安政3年(1856)2月、藩主帰国の留守を利用して北方の探索を藩庁に願い出ます。
 4月25日、狷介は江戸を出発し、1年をかけて東北・蝦夷地を探索し、翌4年(1857)9月に帰ってきますが、北方探検は、厳しい環境の下での行程であったと見えて、健康を損ない、帰郷してから病に伏せる日々を送ることになりました。
 この病気療養中にまとめ上げたのが「北游乗」と題した天・地・人の3巻からなる書物でした。この書物を基礎史料として長くなりますが、菅野狷介と共に探索の足跡を辿ってみます。

「北游乗」原本

※(引用は、部分抄出とし探索の行程と文意の解釈を主眼にしました。また、※( )書きで筆者の注釈を入れました。)

『北遊乗』

【天の巻】ー安政3年(1856)
4月25日~9月1日
〈常奥游乗〉
安政3年4月25日、暁雨、龍口甲邸(たつのくちこうてい)を出発、浅草に住む三浦幹也に別れを告げ、仙台藩小野寺君を訪ねる。
※(龍口とは、現在の千代田区1丁目付近の旧称で和田倉門を指します。甲邸とは、酒井家の上屋敷のことで、ここを出発して浅草の三浦幹也に別れを告げ昌平校の同僚であった仙台藩士小野寺君を訪ね仙台に向かいます)

26日、利根川を渡り、牛久湖に至る。木原節夫の訪問、長島二左衛門の使者来る。
27日、この夕、節夫宅にて諸学員集う。茗黌(めいこう)の旧友なり。
※(茗黌とは昌平坂学問所のこと、昌平校時代の縁者・学友を訪ねるところから出発している。)

28日、諸学員と共に霞ヶ浦にて船遊びを楽しむ。
5月2日、潮来に赴き、長島翁と談話。
5日、鹿島神社に詣でる。
8日、水戸藩に入り会沢正志斎に見(まみ)える。
※(水戸藩では藩校の弘道館教授頭取を務めていた会沢正志斎に面会している。)

21日、仙台に入り名取川を過ぎ広瀬川に至る。
23日、「督学先生の命なり」と旅館に移る。
※(督学先生とは、藩校の学事を監督する藩士、仙台藩士小野寺君のことと推測する)

26日、「至6月下澣、暑炎日甚、予微得暑疾悶々」と記す。  ※(6月下旬まで炎暑日が続き病、暑疾を得て伏せる。仙台を出発 するのは6月27日。この間、「諸学員遊来慰問、松島金華の勝」 と記し、藩校の学生が慰問に訪れ、松島・金華山の景勝を見て 療養。仙台藩士との親密な関係を記す)

〈病間叙事〉
6月26日、諸子に別れを告げ、27日仙台を出発する。
29日、金成(一関市)・平泉(同)で藤原秀衡の古城を訪      ね、黒沢尻(北上市)を経て花巻(花巻市)に投宿。
7月6日、野辺地(野辺地町)を発し青森に達す。南西に岩木      山、俗に言う津軽富士を望む。
7日、函館に渡らんとするが、船便なく止まる。
9日、風向き不順、これより連日猛風。
※(天候不順により函館への渡航を延引する)
17日、暁、明朝出発の予定の報せあり。

〈北航日礼〉
18日、暁、乗船。 19日、左に龍飛岬(津軽半島)を望む。
20日、風向き逆張。21日、微風急に凪ぐ。遙か波間に函館      岬を見る。当別山なり。
※(北海道への渡航には、天候に恵まれず4日を要している)
28日、子溌(玉虫左大夫)に見え、弁天崎を散策す。

8月朔日、毅(人名)卿と共に函館湯川に遊ぶ。
4日、鎮台堀公に拝謁。痛飲快話。
※(鎮台堀公とは、当時函館奉行を務めていた堀織部正(おりべのしよう)。子溌とは、玉虫左大夫のこと。昌平黌時代の狷介の学友で、堀に従い蝦夷地をを踏査した。万延元年には、安政条約の批准のため使節としてポーハタン号に乗船し渡米した。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟をまとめる中心人物となったため、明治2年4月切腹を命じられ47歳で没。)

(東蝦游乗)
5日、亀田村津軽侯屯営を訪問、駒ヶ岳畳の如し。
6日、大沼を経て尾白内へ。
8日、風強く濤(なみ)猛し。
14日、順風晴天、抜錨。北地名山を望む、大小臼(有珠山)     及び内浦嶽・夕張・羊蹄(山)等を望む。
16日、晨(しん)(夜明け)ホロベツを発し、白老に還りアヨロに至る、山中に温泉あり、ノボリベツ。
※(14日、尾白内から海路を取ってホロベツに入った模様である。 有珠山・羊蹄山・夕張岳を望見している)

18日、由仏(ゆうぶつ)(勇払)を発して千歳へ起つ、夕張嶽、武川(ムカワ)、佐留(サルベツ)。寛政中近藤(重蔵)氏所有     の源判官(義経)公の偶像を拝す。
区南志理(クナシリ)、恵登呂府(エトロフ)
※(近藤重蔵が探検した北方の島クナシリ、エトロフを記す)
19日、佐瑠(サルベツ)を発す、此より以東は形勢一転、       海岸険路、新葛(ニイカップ)に至る。蝦酋勺射伊       (シャクシャイン)
※(シャクシャインの戦いの地に入る。寛文9年(1669)蝦夷地での出来事を記す)

20日、東南の風強し、三石を経て浦河に至る。刀勝(トカ      チ)神祠に詣でる。「寛政十年十一月 近藤重蔵  従者 下野源助・金平録、通詞 豊吉・孫七、
夷族 68人、の記録あり。
22日、恵里毛崎(エリモミサキ)眼下に在り。
25日、チブラウシトを過ぎ長附子に至る。佐倉藩士窪田     子蔵(茗黌旧友)に会う。
※(現在の新冠町・三石・浦賀町を過ぎ襟裳岬に到り、十勝平野に出て白糠町に歩を進めている。昌平黌の旧友である佐倉藩士窪田子蔵に逢っている)

27日、晨(夜明け)起床、直別(チョクベツ)を過ぎ、尺       別(シャクベツ)に至る。
28日、尺別から4里の白糠に至る。久須里(クシロ)渓阿       干山、背に雌雄(メアカンオアカン)の峰を見る。
29日、久須里を発し、阿茶子(アッケシ・厚岸)に至る。
※(白糠から釧路へ、雌阿寒・雄阿寒岳を背にして厚岸に到達する)

30日、阿茶子、秋味漁急、
9月1日、大黒島(ダイコクシマ)に渡る。
3日、阿茶子(アッケシ)に戻る、この海水豹(アザラシ)       多産、牡蠣は極大。
※(厚岸町に至り、大黒島に渡っている。アザラシが多く、牡蠣は極大と記す。これは、現在も厚岸の特産物となっている。9月に入り「北游乗」の記録は、厚岸町を東の限界とし帰路に就く。)

【地の巻】ー安政3年(1856)9月4日~安政4年(1857)5月26日
〈東蝦游乗〉
9月4日、阿茶子(アツケシ)を出発。
5日、戸石・松坂2氏にまみえる。松坂某は仙台人
センポージを発し → ブヨマに至る
7日、晴れ、秋気清粛、オトンベを過ぎオニオブへ。
10日、尾朗を発す。
17日、ニイカップ渓谷を渡る、新雪あり。
18日、阿都別に至る。寛政年中近藤重蔵の探求地なり。
21日、白老川を渡る。
23日、オコンボシベ、オサルベツ
24日、内浦嶽の噴火「8月26日」、28人圧死埋没を記す。
29日、北風甚だ寒し、大野村に達す。
30日、大野村に独り留まる。函館人に邂逅。
※(菅野狷介は、厚岸(あつけし)を出発してから帰路に就き、9月末になって函館に戻っている)

10月朔日、駒嶽
予(狷介)、初めて北海道の秋・冬を体験し、明春、     仙台を回り帰途の予定。函館にて春風を竢(ま)ち、更に     西蝦夷に遊び春・夏を体験する、と予定を記録。
〈寓館前乗 附游松日志〉
9日、佐藤暁鴻に見える。
15日、松浦雲律(通称竹四郎)に逢う。
※(松浦竹四郎とは、弘化2年から東西蝦夷地・北蝦夷・千島を探査し、「蝦夷大概図」を著し蝦夷通として知られた。安政2年、幕府から蝦夷地御用掛に起用される。この時に狷介と逢っている。維新後は、開拓判官を拝命し、北海道名・国名・郡名の選定者となった人物)

24日、佐藤暁鴻、松前に赴く。予(狷介)同行す。
28日、有川村・ヘキリチ・ミツヤ・トミカワ諸村を訪問。     タイベツ村
29日、カマヤ・イズミサワ諸村、サッカリ・シリウチ。
11月朔日、福島を発す。
シラフ・ミヤノウタ・諸村、オオザワ・オヨベ村
17日、木村誠蔵を訪う。孟子を講ず、生徒全員参集。
21日、欣求院(ゴングウイン)に詣でる。旧称は義経寺
25日、松前を発し、28日の黄昏時、函館に帰る。
12月6日、松浦雲律の寓居を訪う。雲律病臥。
23日、大雪甚だ寒し、雪4尺の積雪あり。
※(狷介は、10月24日佐藤暁鴻に同行し松前へ行く。西蝦夷のちを探索し、11月28日函館に戻る。12月6日再び松浦竹四郎を訪ねるが、竹四郎は病臥していた。23日に大雪があり、4尺の積雪を記録する。安政3年の記録はここまで。ここから安政4年(1857)に入る)

《安政4年》
正月朔日、雪晴れ、酷寒。
2月21日、毅卿石狩に赴く。
3月15日、米利堅(メリケン)船入港、
21日、栗山某カリフトに赴く。
〈西蝦游乗〉
4月12日、オシャマンベを発し、イヌシナイ・フタマタ渓谷・黒松内
15日、舟にて巌内(イワナイ)へ。
19日、巌内を発し、濃都(ノツカ)を過ぎ祝壽萬井(ス   クスマイ)に至る。
24日、午後函館に到着す。
25日、鎮台堀公巡視奥東諸場
※(正月から4月までの行程を見ると、函館に滞在したようで4月12日の長万部町”オシャマンベ”を出発するところから具体的である。黒松内から舟にてイワナイへ向かい、19日イワナイを発し24日函館に帰り着いている。地の巻はここで終わり、人の巻へ入りる。)

【人之巻】ー安政4年(1857)5月26日~9月13日
〈北游後乗 南旋日誌〉
5月26日、天気晴朗、辰下刻(9時頃)開帆、海面快駛(かいめんかいし)(海は穏やかで快く船が進むこと)。大間(下北半島)に 達する。
※(函館を出発し、蝦夷地を離れ青森大間に至り、恐山に登る)

29日、恐山に遊ぶ。
閏5月朔日、大波多を発し、田名部にて宿す。
6日、福岡に至り、小保内江村を訪ねる。
7日、江村に乞われ数幅の書を為す。
9日、盛岡城に達する。11日、盛岡を発し花巻に宿す。
13日、水沢を出発し、渋民村に蘆文雄を訪ねる。
渋民村文雄は村の大姓なり、一家男女十余口 東山室鳩巣の仲間なり、と記す。
24日、渋民村を発し一関へ、菊池一字・森子文を訪ねる。2   人は、茗黌旧社なり。
※(盛岡から花巻へ、水沢を経て閏5月13日に渋民村蘆文雄を訪問している。石川啄木の故郷、渋民村に入っている。ここから一関市に向かい24日昌平校の同僚であった菊池・森を訪ねている)

6月朔日、蘆嗣(カサネ)(文雄嫡子)と共に蓬山(蓬莱山)      に遊ぶ。
4日、飯野川を発し、北上川に至る。石巻。
12日、艦廠学生5名に連れられバッテラ船で浅川善庵翁      を訪ねる。
※(バッテラ船とは、艀(はしけ)舟のことで陸と停泊中の船の間を往復して荷物などを運ぶ小舟)

17日、石巻加賀屋三衛に投宿
※(水沢から渋民村・一関のルートを取り、北上川へ出て石巻に入っている。バッテラ船で浅川善庵を訪ね加賀屋に投宿する)

19日、鮎川(牡鹿半島先端)を出発
22日、千葉寬齋・医者安田某と飲み語る。
23日、村の有志5・6人来たる。夜になり一酔、十余幅の      書を為す。
※〈後欠〉
渡利根川   越谷路上
入都   三千里
(安政4年)9月13日、  到家

 ペリー来航が姫路藩士に与えた影響を見てきましたが、姫路藩にもこの様な時代の変化を肌で感じ、行動を起こした開明的な藩士がいました。「北游乗」は、狷介の死後に朝廷の要請を受け新政府へ提出しました。これによって後世に残った貴重な史料です。

「25.菅野狷介の北方探索(2)」への1件の返信

チラ見して姫路藩にも菅野狷介のような歴史に名を遺すお方が居られたことを嬉しく思います。(西川氏が力むのも頷けます) 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です