6. 忠実の子供たち

忠実の子供たち

 忠実(ただみつ)の影響は、その子供たちを通して幕末にまで及んでいます。忠実には、養子を含めると30人の子どもがいました。この中から幕末に影響のあった人物を「酒井家略系図」の中から拾い出して、酒井家の姻戚関係のネットワークを辿ってみます(『播磨学紀要』22号P40)。まず、図の中央に位置する忠実・忠学を起点とします。
二重線でつながっているのは養子縁組みを示します。

4代忠実・5代忠学の系譜

 5代藩主となる忠学は、正室が喜代姫(晴光院)で11代将軍家斉の娘です。側室志津磨との間に出来たいつ姫(妙寿院)は、九条幸経に嫁ぎます。いつ姫は、嫁ぐにあたって忠実の養女となって九条家に入ります。ここに公武の架け橋とならん、と言う姫路藩の政治的立場が明白となります。次に、忠実の実子で他家へ養子に出て藩主となった系図左上の4人の藩主について略歴を紹介します。
 越前鞠山(まりやま)(敦賀)藩主酒井忠?(ただます)は、天保14年から元治元年にかけて若年寄を3度務めています。左から2番目の三河田原藩主三宅康直(やすなお)は、持参金付きで田原藩主となった殿様として知られ家老に渡辺崋山を抜擢する藩主です。康直は、天保12年から奏者番に就いています。
 3番目の信州上田藩主松平忠固(ただかた)は、奏者番から天保9年には寺社奉行へ進み、弘化2年には、大坂城代を務めます。忠実の死後、嘉永元年10月と安政4年9月から2度老中を務め、ペリーとの間で結ばれた日米和親条約やハリスとの間で結ばれた日米修好通商条約の締結に老中として取り組みました。
 4番目の西尾忠受(たださか)は、忠実の正室隆昌院(りゆうしよういん)の実家に養子として入り藩主を相続します。忠受は、弘化3年から奏者番を務め、地元では、茶の栽培を導入した藩主として知られています。この4人は、いずれも幕府内で要職を務めていました。

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