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播州弁あれこれ 4

播州弁禁止令?

 「播州弁あれこれ2」にて、酒井家は前橋弁を公用語とする通達を出していたと書いたところ、藤原代表から「そんな通達はあったかな。出所と年代を再確認するべし」との意見をいただいた。
 城郭図書館で史料を濫読していた頃。何かの資料で見かけたものだが資料名を失念してしまっていたので、慌ててネットで検索してみた。姫路市立城郭研究室学芸員の工藤茂博先生の論文から、酒井家の通達集である『姫陽秘鑑』に記載されていることが判った。天保11年(1840年)の通達であることも判った。
 早速、『姫陽秘鑑(きようひかん)』第四集を入手して調べたが、記載がない。『姫陽秘鑑』は第一集と第四集の二巻しか配本されていない。どうやら他の巻に記載されているようだ。
 原文確認ができないため、工藤先生の寄稿論文「海洋の雄藩 姫路」から訳文を引用させていただいた。

「言辞之儀武家ニ而は別而さはやかに申取候儀御用弁ニも相当候儀、下人柔弱之邦言卑劣之言葉無之様相互ニ心付相改候様厚相嗜可申事」

 文面では前橋弁を「御用弁」とすべしとは書かれていない。間違いでした。訂正いたします。
 でも「さはやかに申取候儀」の解釈について、発出側が前橋出身者であることから、受取り側は前橋弁ととらえた者も少なくはなかったのではなかろうか。
 「下人柔弱之邦言」というのが播州弁のことだと思う。なんとも見下した表現ではあるが、よく見ると「卑劣之言葉」とは並列表現で、播州弁が卑劣であるとまでは言っていない。

 通達の発出年が、酒井家入封の90年後であることから、藤原代表は「誤解や伝達ミス回避が目的ではないのではないか。同時期の酒井家の背景事象と合わせて考察すべき」と。
「この時期は、河合寸翁による藩財政改革の完了期であり、酒井家の再隆盛期とも言える。家格の復興についても、将軍家や公家との婚姻が進められている。中でも、いつ姫の九条家との婚姻が天保13年であることから、公家に対するいつ姫の評判を気にして出されたお触れとみるべきではないか」との見解である。

 この間、播州弁の「け」言葉や「ど」言葉など、京都の影響について書いてきたが、ここにきて「またもや京都の影響か」という思いである。因縁浅からじ。

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「播州弁あれこれ 4」への1件の返信

発出側を前橋と考えておられる点について一言を提します。90年たっているということと江戸在藩の藩士は何弁を使っていたのでしょうか。京都留守居や大阪留守居もいました。世襲性が多いので前橋弁にこだわらなくてもいいのではないかと考えます。公用語のようなものがあったのではないかと思いますが・・・。一考を用する指摘ですね。

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